(5) 現地調査(北九州編)
1)金印は盗掘?! 1784年2月23日、博多湾にある志賀島で、甚兵衛というお 百姓が、田の水はけを良くしようと作業をしていたら、石の間か ら金印が出てきました。それは後漢書にある光武帝が授けた とされる金印で、そこには『漢倭奴国王』と彫られており、歴史 的な大発見でした。 今に残るその金印が、歴史的な遺産だということに間違いは ないでしょう。しかし、それが発見された経緯は、不自然で、謎 もいくつか残されています。まず、志賀島に残る過去帳には、 甚兵衛なる百姓は存在していません。さらに、古文書では、秀 治・喜平が叶崎にて発見したと残されています。 ところが、その3月16日には、『百姓甚兵衛口上書』なるもの がお役所に提出されています。 また、その金印は、まず商人に届けられ、その商人の知り合いだった学者亀井南冥が、光武帝から授かった金印だと見抜いています。そして、亀井南冥は、その金印が、島の南、叶崎にあった甚兵衛の畑で発見されたという鑑定書も残しています。 それらに基づいて、近年、福岡市は、叶崎付近の徹底調査を行っていますが、その金印に関連するような物は何も見つかっていません。その発見されたと言われている場所は、今は公園になっていますが、どうしてそのような場所で発見されたのか未だに謎とされています。 その発見の経緯で、まず疑問に思うのは、金印が最初に商人の手に渡っているということです。畑から突然そのような物が出てきたとなると、驚いて、商人ではなく、まずお役所に届け出るでしょう。ところが、その金印を、商人に買ってもらおうとしています。当時のお百姓さんの行動としては、ちょっと考えにくいと思われます。 発見したのは、甚兵衛という百姓だとされていますが、その甚兵衛なる百姓は存在していたのかどうか分かりません。そして、甚兵衛ではなく、秀治・喜平が発見したという古文書が残されているということはどういうことでしょう。あるいは、商人のところへ持って行ったのは、その当事者にしたら当然で、『予定』の行動だったのかもしれません。 志賀島のある博多湾は、大陸との表玄関にあたります。古来、その交易の窓口でもあったわけです。そこからこの金印が発見されています。その入り口にあたる志賀島の最北端の最も大陸に面した所には古墳があり、いくつか神社もあります。その重要な場所にあたる古墳には、おそらく当時の最も重要な役割を果たしていた『王』が埋葬され、神社とともに奉られてきていると考えられます。 そして、その古墳には、盗掘された跡が今も残されています。 これらの帰結として、金印は、その古墳から盗掘された物だと考えられます。ですから、まず商人に渡り、その商人は、金印の鑑定を知り合いの亀井南冥に依頼しています。その時には、金印のみならず数々の副葬品もあったことでしょう。それらによって、亀井南冥は、後漢書の金印だと理解したと考えられます。いくら学者でも、金印だけではそう簡単には分からないでしょう。 そして、亀井南冥は、それがあまりの歴史的遺産だと分かり、お役所に届け出たと考えられます。しかし、盗掘だと分かると、当時のことですから、あるいは首が飛ぶことにもなりかねません。それで、全く方向が逆の南の畑のような所から発見されたことにしたというのが、事の真相だと私には思えます。 2)次は北九州へ さて、万葉集第2首が奈良大和で詠まれていないとなりますと、ではどこでその歌は詠まれたのでしょう。その謎に頭を悩ましていたら、北九州に高山(こうやま)、あるいは香山とも書く山があり、そこは極めて見晴らしが良く、『天の香具山』ではないかと言われているということを知りました。九州にも数多くの遺跡があり、古代の都といった拠点があっても不思議ではありません。 奈良大和にある香久山は、全く見晴らしが良いわけでもなく、特に何処と言って特徴のあるような山ではありませんでした。ところが、香山は見晴らしが良いとありますから、あるいは、その山こそが『天の香具山』なのかもしれません。 そこで私は、ただちに北九州へと向かいました。 まず、福岡市にある博物館や図書館で調べることにしました。その折に、上記にあるように、そこで展示されていた『金印』を見ることが出来ました。 今回の北九州行きの目的は、香山が『天の香具山』なのかどうかを見極めることにあります。そのためには、万葉集第2首に必要な条件を満たしているかどうかを確認しなければなりません。その場所からは海原が見渡せるか、煙が立ち昇っていたか、そして、付近に都が存在していたのかといったことです。 香山は、筑後川流域にあり、博多から日田へ向かう道路と接するあたりにあります。すぐ側には原鶴温泉があり、その香山のある場所は山が突き出ていて、自然の展望台のような地形になっています。そこからは、筑後川流域やそこに広がる平野を見渡すことが出来ます。しかし、海からは、相当離れています。筑紫平野は、古代にあっては、かなり奥まで海が入り込んでいたようです。 ですから、旧くは、海岸だったと思われるような場所には、そういった地名が残っています。それを考えますと、香山付近まで海が入り込んでいた可能性も考えられます。その入り江の一番奥のあたりに位置していたのかもしれません。 では、その香山からはどんな景色が見えるのでしょう。 早速、登ってみることにしましょう。
邪馬台国発見
Copyright (C) 2009 みんなで古代史を考える会 All Rights Reserved.
(2004,11,22 16:56 志賀島から見た夕日)