(2004,11,14 11:20 甘樫丘から畝傍山を展望)
(2004,11,14 15:58 藤原京大極殿跡地より見る香久山)
(4) 現地調査(奈良大和編Ⅱ) 1)甘樫丘に蘇我氏の要塞? 高松塚古墳から大和三山へ向かうと、甘樫丘(あまがしのおか)にさしかかりました。丘と言っても、尾根の先端といったような小高い丘陵です。駐車場もあり、観光地として整備されているようなので、気になっていたこともあり、登ってみることにしました。 まず、川原展望台に出ました。そこから見える畝傍山は、高松塚古墳の歴史公園館で第2首の横に展示されていた写真と同じ眺めでした。 この甘樫丘には蘇我氏の住居があり、武器庫もあってさしづめ要塞といった構えだったと言われています。しかし、そこは狭い尾根で、とても建築物を建てるほどのスペースはありません。しかし、尾根はまだ続きますから、そちらには広い場所があるのかもしれません。 尾根伝いに移動しますと、川原展望台よりも広い豊浦展望台に出ました。川原展望台よりも見晴らしが良く、奈良盆地が一望に見渡せ、大和三山や、遠くには二上山や三輪山も見えます。 これだけ見晴らしが良いと、観光整備がされるのも当然かと思われました。そこには、数十名の観光客がおられ、また海外からの姿もあって、さしずめ古代史サミットかといった雰囲気です。 その中の団体のガイドが、説明している声も聞こえてきます。 「こちら東側に広がっているのが、当時の天皇家の住まいがあった場所です。それを見下ろすように、ここ甘樫丘には蘇我氏の屋敷があった、と言われています。このことからも、蘇我氏が天皇家をしのぐほどの大きな力を持っていたということがうかがえます」 そこから東に広がっている丘陵を見下ろしながら、そういったお話を聞きますと、『なるほど』と思ってしまいそうですが、やはり豊浦展望台のあたりもそんなに広い場所ではありません。仮にも天皇家をも凌ぐ権力者が、武器庫もある要塞とも言えるほどの拠点を構えるのですから、相当の広さを必要とします。ところが、甘樫丘の上には、そんなスペースは何処にもありません。あるいは、誇張された話だとしても、その場所に建築物を建てようとしますと、かなりしっかりした基礎、土台がなければ、倒壊してしまいます。しかし、その周囲には、そういった痕跡は一切ありませんでした。 いったい、蘇我氏を記した日本書紀の記述は、はたして史実だったのかという疑問も出てきました。 2)大和三山にて 大和三山、つまり香久山・畝傍山・耳成山の中心に藤原京の大極殿があったと言われ、その跡地とされている場所に行きました。 その大極殿からは、持統天皇が歌を詠んだとされています。 春過ぎて 夏来たるらし 白妙の 衣干したり 天の香具山(巻1-28) 私は、その大極殿のあったとされる場所から、持統天皇が何を思ってその歌を詠んだのかといった疑問を持っていました。 ですから、その場所に立って香久山の方面を見ました。そこから見える風景は、どう考えても歌に詠もうとするような眺めではありません。さらに、その場所から香久山までは、1キロメートル以上も離れていて、何が干してあるのか判別するのも難しいほどです。しかし、持統天皇は、または持統天皇とされる人物は、香具山に白妙の衣を見て、その感動、思いを歌にしたためています。 しかし、持統天皇が、その場所から何を思い、あるいは何に感動してその歌を詠んだのか、私にはかいもく検討もつきませんでした。春が過ぎて夏が来るのは当たり前のことですし、その何の変哲もない香久山に白妙の衣が見えたからといって、何がどうだというのでしょう。どちらにしても、当時の持統天皇には、何か思うところがあったのだろうと想像するしかありませんでした。 そして、一番の問題は、香久山そのものです。その大極殿跡地から見える香久山は、別段、どうというほどの山ではありません。先にご紹介した第2首では、たくさんある山の中から『天の香具山』を『取りよろふ』、選んでその『香久山』に登って国見をしています。どうして『香久山』を選んだのでしょう。あるいは、甘樫丘よりも、もっと見晴らしがいいのでしょうか。 そこで、私は、香久山へと向かいました。その周辺には集落が見えていて、上に上がれるようになっているのだろうと近くに行きましたが、車で周囲を回っても、どこから上がれるのかさっぱり分かりません。その森の中を歩くように遊歩道といったことにはなっているようでしたが、展望台があるわけでも、万葉集第2首が詠まれた山だといったことでの整備も全く見当たりません。つまり、別段見晴らしが良いというわけでも、とりたてて何か特徴があるような山でもないようです。見晴らしが良いのは、甘樫丘でした。 では、その第2首を詠むのに、どうして見晴らしが良くもない香久山に登ったのでしょう。そして、見えもしない海原を詠んでいるのです。 私は、この時点で、『万葉集第2首は、決してこの奈良大和の地で詠まれてはいない』と確信しました。 では、万葉集第2首は、どこで詠まれたのでしょう。大和において大王が国見をしているのですから、その大和は当時のこの列島の都を意味します。古くより、この列島の古代の都は、奈良大和にあったとされています。しかし、その大和で詠まれたとされる万葉集第2首が、奈良盆地で詠まれていないということになると、その都は奈良には存在していなかったということにつながります。 大変なことになってきました。わが国の都があったとされる奈良大和ですが、実はこの列島の都は、別の場所にあったということになってきました。 どういうことなのでしょう。 謎はさらに深まるばかりで、私は、頭を抱えるようにしてその地を後にしました。 琵琶湖から奈良大和を調べることで、それまでの疑問や謎が解決するどころか、記紀にある記述そのものに対する矛盾や疑問まで出てきてしまいました。
邪馬台国発見
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