邪馬台国は出雲に存在していた!

この説文は、全国邪馬台国連絡協議会の「私の邪馬台国論」に投稿し、2017年2月に掲載されたものです

 『邪馬台国・日本(ひのもと)を占領征服した唐王朝 

                              みんなで古代史を考える会 西 山 恒 之

<はじめに>
 邪馬台国やわが国の成り立ちの歴史を検証する中で、世界的にも類例を見ないほどの、恐るべき歴史の改竄や捏造が行われていることが分かりました。我が国の歴史を歪めていたのは唐王朝で、その手法や証拠が、中国の史書に残されていました。
 我が国の古代の姿を記す中国の史書は、その描かれる視点から3類に分けることができます。
 まず第1類は、漢書・三国志魏書東夷伝(魏志倭人伝)・後漢書・宋書・隋書・旧唐書・資治通鑑など、特に歴史を歪めようという意図が見られないものです。そして、第2類は、梁書・晋書・北史・南史など、唐代に記されたもので、唐王朝によって意図的に歴史が歪められており、大陸の王朝からの視点で描かれています。そして、第3類は、新唐書です。この新唐書は、大陸から放逐されこの列島に逃避してきた唐王朝の残党勢力の視点で描かれており、原形を留めないほどに歴史が歪められ、ほとんどが創作された歴史物語となっています。
 ところが、今の我が国に残されている歴史は、基本的にその新唐書の歴史観に基づいています。邪馬台国をはじめ、我が国の古代史や成り立ちの歴史に多くの謎や矛盾が存在するのは、そのためです。
 さらに、我が国の歴史を改竄・捏造した唐王朝によってこの列島が占領征服されたため、この列島から本当の歴史は闇に葬られ、彼らにとって都合の良い歴史認識がこの列島の歴史とされてしまったのです。それ以来、我が国の人々は、そういった架空の歴史で洗脳され続けることになってしまいました。
 今回は、どうして唐王朝がこの列島を征服しようとしたのか、その動機や征服の軌跡をたどることにしましょう。


1、 渡来民族の攻防
 この列島には、数多くの民族が渡来しており、そういった渡来民族の歴史を振り返らなければこの列島の歴史を理解することはできません。
 先の投稿でも触れましたが、民族的規模での最初の渡来は、紀元前7世紀頃の「山戎」という民族でした。その後、紀元前4世紀にかけて、中央アジアから東アジアに遊牧騎馬民族がやってきました。満州エリアに「東胡」、モンゴルエリアに「匈奴」、その西に「月氏」が、それぞれ拠点を構えます。
 彼らは、中国王朝から「胡」と呼ばれて激しく対立しますが、胡の民族間でも大きな抗争が起きます。紀元前3世紀頃、月氏と匈奴の間に争いが起き、さらに匈奴と東胡との間でも大きな戦いになり、東胡の王は殺され、東胡は鮮卑と烏丸に分裂します。東胡は、この激しい抗争に敗れ、その一部がこの列島に逃避してきます。
 2013年8月8日、滋賀県高島市上御殿遺跡で、オルドス式銅剣の鋳型が出土しました。その鋳型は、中国の華北や内モンゴルに分布したオルドス式銅剣の特徴を持ち、国内で初めての発見でした。柄は、動物や双環などのモチーフで飾られ、騎馬戦や接近戦での武器として使われました。この発見は、胡の勢力がこの列島に渡来していたことの痕跡だと考えられます。
 また、大陸においては、匈奴に敗れた東胡の末裔である鮮卑が強大化し、紀元2世紀頃になりますと、逆に鮮卑が匈奴を滅ぼし、北アジア一帯は鮮卑の支配するところとなります。
 この頃、匈奴の一部が、それらの攻撃を逃れてこの列島にやってきます。
 こうして、大陸において激しい民族抗争にあった鮮卑と匈奴の二つの勢力が、この列島で遭遇することになりました。当時、この列島の人々は、先に渡来した東胡の厳しい制圧下に置かれていました。その支配下にある在来の人々とスサノオ尊を中心とする匈奴の勢力は、共同して東胡の圧政を倒そうと大きな戦いに発展します。これが、およそ西暦150年頃から40年間にわたる「倭国大乱」として中国の史書に残されています。
 その戦乱を制したのが、スサノオ尊であり匈奴の勢力でした。スサノオ尊は、在来の勢力の象徴である「卑弥呼」を国家的象徴とし、自らはそれを支える実質的支配者とする国家体制を築きました。その連合国家は、大きく発展し、宋書にもあるように、倭の五王の時代、朝鮮半島をも支配下にするほどに、勢力を強めます。
 その後、大陸の情勢も大きく変化します。永らく分裂を繰り返していた中国王朝ですが、楊堅が隋を建国し、589年に中国全土を統一しました。楊堅は、鮮卑系の北周の系列にあり、中国王朝は、胡の勢力の鮮卑によって統一されたことになります。
 ここに至り、鮮卑と匈奴が、大陸とこの列島で対峙するという構図となったのです。倭国大乱と同様の対立が海を隔てて再現されたことになります。

 

2、隋の属国支配に対抗した出雲王朝
 開皇20年(600)に、出雲王朝は隋に使者を派遣します。その使者が訊ねられて、出雲王朝の国家形態について答えています。ところが、隋の皇帝は、その国家形態には道理が無いとして訓令で以って改めさせたとあります。
 出雲王朝は、当時で400年以上にもなる歴史と伝統を持っています。いくら大陸の王朝とは云え、誕生して間もない国から国家形態について命令されたことになります。早くも両国に軋轢が生じたようです。
 その後、大業3年(607)、出雲王朝は、隋に再び使者を送り国書を届けています。先に送った使者が国家形態について述べたことに対して、隋の皇帝は、訓令で以って改めろと命令を下しています。それに対する回答が、この国書であるとも言えます。使者が届けたその国書には、「日出ずる處の天子、書を日没する處の天子に致す。恙無きや云云」とありました。
 大業3年と言えば、第2代皇帝煬帝が即位したばかりです。その即位の祝賀といった使者に携えられた国書は、煬帝に対し、『あなたが天子なら、私も天子だ、よろしく』といった、対等の意思表示をした内容となっています。また、それ以上に、隋の皇帝を、日が没するところの天子だとしています。彼らにとって日、太陽は、神をも意味します。それが没するということは、隋王朝の没落をも意味しています。ですから、隋は、「蠻夷の書無禮なる者有り。復た以って聞するなかれ」と激怒してしまいます。
 その翌年、隋は、出雲王朝に使者清を送ります。その使者と「倭王」との会見が行われ、出雲王朝は、帰国する清に使者をつけて貢物も届けているようです。
 しかし、この後、隋と出雲王朝は、国交断絶に至ってしまいます。
 大陸の王朝である隋は、南海の孤島の国など属国としか見ていません。ましてや、東胡の末裔である鮮卑の国である隋と、匈奴の流れにある出雲王朝とが、その背後にある激しい民族抗争の歴史をふまえると、友好関係を築くことは極めて困難です。

 
3、 隋から唐へ・・・同じ鮮卑族による「政権交代」
 第2代皇帝煬帝による、江南との運河建設や3度にもわたる高句麗遠征の失敗で、隋は大混乱に陥ります。その混乱の中で、隋の武将であった李淵は、隋の中央を掌握し、唐を建国しました。 
 とは言え、隋も唐も同様に鮮卑族による貴族政治で、その王朝の担い手が代わったに過ぎません。今で言う「政権交代」のようなものです。
 隋とは、国交断絶といった状況に至りましたし、大陸の王朝との交流を望んでいたのかどうかは分かりませんが、出雲王朝は、貞観5年(631)、第2代皇帝李世民の時代に使者を送っています。
 ところが、李世民は、あまり友好関係を望んではいなかったのか、遠方だから来なくてよいと、わざわざ使者を送ってきます。しかし、その使者は、出雲王朝の王子と、つまり太子か家臣ということでしょうか、礼を争って朝命を述べることなく帰国しています。
 出雲王朝は、先の隋との関係においても、属国扱いされることに対し反発していました。唐王朝の使者は、「朝命」を伝えるという立場で来ていますから、出雲王朝は、唐から命令されることになります。出雲王朝は、その使者による「朝命」を拒否し、唐との関係は、隋以上に険しくなっていきます。

     

4、「倭国」などと呼ぶな・・・日本(ひのもと)誕生!
 出雲王朝は、貞観22年(648)に、また使者を送っています。その使者は、倭国という名称が良くないので日本国に改めたと述べています。倭国というのは中国王朝から見た蔑称で、もう「倭国」などと呼ぶな「日本国」と改めよと唐王朝に突きつけています。
 そして、日の辺りにあったので日本国としたとあります。東出雲にある熊野大社には、『日本火之出初之社(ひのもとひのでぞめのやしろ)』という名称が、今に伝えられています。日本(ひのもと)が、東出雲の地に古くからあり、それが国名の由来となっています。今は、『日本(にほん)』と呼ばれていますが、当初その国名は『日本(ひのもと)』でした。
 このように新生『日本(ひのもと)国』という国名は、倭人あるいは倭国などと蔑視する大陸の王朝に対抗し、対等の姿勢を貫こうとする過程で誕生しています。
 しかし、唐王朝にしてみれば、出雲王朝は、匈奴の流れにある『大国』、そして『邪馬臺国』だと分かっていますから、不信に思ったようです。

 

5、謀略で実権を握った武則天
 唐王朝第2代皇帝李世民の時代は、『貞観の治』と言われるほどに善政が行われたと評されてもいます。しかし、第3代皇帝李治の時代になると、大きく治世が変貌していきます。
 649年、李治は、皇帝位に就くも病弱だったため、655年に皇后となった武則天が実質的支配者となります。
 武則天は、624年生まれで、14歳で第2代李世民の後宮に入り、その後李治に取り入ります。その李治との間に娘が誕生するのですが、武則天は、わが子を自らが絞め殺し、それを王皇后の仕業だとして、王皇后を皇后の座から蹴落とします。武則天は、自分が権力の座を仕留めるためには、わが子をさえも自らの手で抹殺するという残忍な手法を使っています。
 この時点で、武則天は人間性を喪失しています。李世民は、武則天を遠ざけていましたから、あるいはその本性を見抜いていたのかもしれません。しかし、李治は、4歳年上の武則天に心を奪われ、周囲の反対の声も聞かず、武則天を皇后にしてしまいます。
 皇后となった武則天は、その王前皇后等を虐殺しています。武則天は、王前皇后と蕭前淑妃を百叩きにした上に、四肢を切断して、「骨まで酔わせてやる」と言って酒壷に投げ込み、二人は酒壷の中で数日後に絶命しています。蕭前淑妃は、『次は猫に生まれ変わり、鼠に生まれ変わった武則天を食い殺してやる』と呪いながら亡くなり、後年の武則天は宮中で猫を飼うのを禁じたと言われています。
 こうして、まるで鬼畜かのごとく唐王朝の実権を握った武則天は、身内の武氏一族を重用しますが、冷酷非道に子や孫であろうと自らに反抗する者を容赦なく抹殺し、また密告により反対派を徹底して潰すなど、独裁的な恐怖政治を横行させました。
 ですから、漢代の呂后、清代の西太后とともに『中国三大悪女』と称されてもいます。
 また、隋を滅ぼして唐を建国した李淵は、『天子になるであろう』という道教からの予言が、その行動の根底にあったとも言われています。そして、唐王朝初代皇帝となった李淵は、主要な3宗教に、『道教・儒教・仏教』という順位を付けて道教を推奨しました。それに対し、仏教徒は、太子李建成を支持して巻き返しを図ろうとするのですが、道教に推される李世民が李建成を廃し、第2代皇帝となります。
 この道教を重視する動きは、第3代皇帝李治の時代になるとさらに強まり、李治は老子を道教の祖『聖祖大道玄元皇帝』として崇めます。というのも、『史記』に、老子の名前が『李耳(りじ)』と伝えられていたので、唐王朝の李氏は、同姓の老子を自らの祖先としたからでもあります。老子は、上巻『道経』、下巻『徳経』を残しており、李治は、それらを『道徳経』として推奨しています。
 また、当時の道教にあっては、錬丹術、あるいは外丹とも言われますが、丹、つまり水銀を服用することで不老不死の仙人になることができると考えられていました。辰砂などから取り出した硫化水銀を原料とする仙丹を、皇帝たちは不老不死の妙薬だとして求めていました。
 李治が病弱だったというのは、あるいは水銀中毒の可能性もありそうです。
そして、李治の皇后となる武則天も、李世民が亡くなった時に女性道士となり、李治も武則天も、道教に大きく関わっています。
 その道教では、天の中心を為す北極を『北辰』と呼び、宇宙の中心だとしていました。それが、神格化され、『天皇大帝』とも呼ばれていました。こういった考え方を基にして、660年、武則天は皇帝を『天皇』とし、自らも『天后』と改名しています。
 ここにこそ、我が国の今にまで続く天皇の『ルーツ』があります。

 

6、列島征服前夜・・・史書に残されている動機
 第3代皇帝李治とその皇后武則天は、いよいよこの列島の征服に着手します。それは、東夷などと獣のごとく周辺民族を蔑視していた唐王朝による、東アジア一帯を制圧する『大唐帝国』構築の一環でもありました。
 それに向けて、この列島に対する視点は、単なる南方の孤島に住む倭人あるいは倭国と卑下してきたところから、征服の対象へと変化しています。それは、梁書で示めされた視点がさらにエスカレートして『北史』と『南史』に描かれています。この両書は、659年、李延壽によって記されおり、列島征服を目前にして、唐王朝が、この列島をどう見ていたのかが良く分かります。
 北史・南史ともに共通しているのは、梁書と同様、出雲の地にあった都『邪馬臺国』が九州の卑弥呼の地にあったとする改竄であり、そこから東北7000余里、つまり出雲の地に『文身国』なる国を作り上げてもいます。『文身』とは、刺青(いれずみ)のことで、刺青をしている国があるとしています。それは、体に獣のような刺青があり、額には『三』の文字が入っていて、その大きさで身分が異なると述べています。この記述は、魏書を参考にしているようです。また、全国に数ある『えびす神社』の総本社は、島根半島の東にある『美保神社』で、そこの神紋は、『三』です。
 魏志倭人伝には、九州に住まいする『倭人』の風習が紹介されています。その中で、『倭人』は好んで潜水して魚介類を捕獲しており、そのため蛟竜、つまりサメなどの被害から身を守るため断髪や刺青をしているとあります。当時、体に刺青をするというのは、海人族として大魚・水禽から身を守るということによるものだったのです。
 ですから、騎馬民族である出雲の勢力は、漁に出かけるといったことはあっても水に潜るという漁がその中心にはなく、ましてやサメなどから身を守るという必要もありませんし、裸になったり刺青をするといった必要性も風習も生じません。
 さらに、その国は豊かではあるが、賤しくてお客が行っても食べ物は出さないと、極めて卑下した描き方となっています。その上、国王にいたっては、その住まいは金銀や珍しい華麗な物で飾られていて、周囲には水銀が満ち溢れ、その水銀の上を雨が流れているとまで記しています。
 つまり、『文身国』なる国の国民は、物が豊富にあるにもかかわらずお客に食べ物も出さないケチなやつらで、国王にいたっては、金銀財宝にまみれ、さらに貴重な水銀を豊富に持っているが雨ざらしにしているとんでもない放蕩な国王だと言っているのです。
 ここには、出雲の地にあったこの列島の都をターゲットにしている唐王朝の思惑が、極めてあからさまに描かれています。
 この列島からは、水銀が、丹波や伊勢などで豊富に産出されていました。それは、魏書にも記されていますが、伊勢では江戸時代に至るまで採掘されていました。出雲王朝が支配していたその水銀鉱脈を唐王朝が狙っていたことが分かります。
 当時、水銀と言えば今の石油にも相当する貴重な資源で、朱色の原料だったり、不老長寿の秘薬のように思われてもいました。そして、何よりも、金の加工には欠かす事のできない、唐にしてみれば喉から手が出るほど欲しくてたまらない鉱産物だったのです。その水銀を豊富に持っているにもかかわらず、雨ざらしにするようなとんでもない放蕩な王だと描いています。
 今でもそうですが、征服の対象は徹底して貶められます。侵略者は、まず侵略しようとする相手を必ず悪者に仕立て上げます。そして、そんなに悪いやつだから何をしてもいいのだとばかりに征服して強奪します。
 南史からは、そういった侵略者の思惑が垣間見えています。

 

7、唐王朝による列島征服の軌跡
 隋の煬帝は3度も高句麗遠征に失敗しますが、その東アジア征服の動機は、唐王朝にも引き継がれます。唐王朝第3代皇帝李治とその皇后武則天の時代になり、朝鮮半島をめぐって、東アジアは戦乱状態に陥ります。唐王朝は、チャンス到来とばかりに、高句麗、百済、日本征服に乗り出します。
 唐王朝による東アジア征服の経過は、『資治通鑑』に残されています。『資治通鑑』とは、北宋の司馬光が編纂した編年体の歴史書で、1084年に成立しています。収録範囲は、紀元前403年から、紀元959年までとなっています。
 7世紀中ごろ、百済と高句麗対新羅で争いが頻発するようになり、660年3月には、戦況が不利と見た新羅は唐に援軍を要請し、その8月、唐は、現在の韓国の中ほどにある広州のあたりに、彼らの拠点となる熊津都督府を置いています。
 661年になると、さらに戦闘は激しくなり、唐の将軍劉仁願は、百済府城を占拠していましたが、逆に百済の勢力に包囲されてしまいます。そこで、唐王朝は、劉仁軌を、検校帯方刺史として、仁願を救援するように命じます。前年12月に兵糧船を転覆させた責任から処分を受けていた仁軌は、大いに奮起します。

詔起劉仁軌檢校帶方州刺史,將王文度之衆,便道發新羅兵以救仁願。仁軌喜曰:「天將富貴此翁矣!」於州司請唐暦及廟諱以行,曰:「吾欲掃平東夷,頒大唐正朔於海表!」仁軌御軍嚴整,轉鬭而前,所向皆下。百濟立兩柵於熊津江口,仁軌與新羅兵合撃,破之,殺溺死者萬餘人。
 『天は、この翁を将に富貴にせんとしている!』
 さらに、『吾は東夷を掃平してやる、そして、大唐の正朔を海表へ頒布するのだ!』
 大唐の正朔を海表へ頒布するとは、唐王朝の暦で支配してやるという意味で、当時、還暦間近の仁軌ですが、並々ならぬ征服欲をあらわにしています。
 仁軌軍は、向かうところ敵なしといった勢いで進軍し、百済軍は、万余人が戦死、あるいは溺死したとあります。新羅軍も出兵しますが、百済軍に破れ、双方一進一退といった状況が続きます。

左驍衞將軍白州刺史沃沮道總管龐孝泰,與高麗戰於蛇水之上,軍敗,與其子十三人皆戰死。蘇定方圍平壤久不下,會大雪,解圍而還。
 唐王朝軍の蘇定方は、661年に平壌城を包囲しますが、苦戦し、翌662年2月には、大雪のために帰国しています。

仁願、仁軌等屯熊津城,上與之敕書,以「平壤軍回,一城不可獨固,宜拔就新羅。若金法敏藉卿留鎭,宜且停彼;若其不須,即宜泛海還也。」將士咸欲西歸。
 一方、仁願と仁軌も、熊津城を占拠していましたが、百済軍に包囲され兵糧も補給できなくなってしまいました。そのため、662年7月、皇帝は新羅に戻るか、帰国せよと指示を出します。

今平壤之軍既還,熊津又拔,則百濟餘燼,不日更興,高麗逋寇,何時可滅!且今以一城之地居敵中央,苟或動足,即爲擒虜,縱入新羅,亦爲羈客,不如意,悔不可追。況福信凶悖殘虐,君臣猜離,行相屠戮;正宜堅守觀變,乘便取之,不可動也。
 しかし、仁軌は、その皇帝の指示に従いませんでした。
 『高句麗を滅ぼすために先ず百済を攻めた。ところが、平壌の我が軍が帰国し、この熊津からも手を引いたらいつになったら高句麗を滅ぼせるのか。今、敵地の真只中にいる。下手に動いたら捕らえられる。機会をうかがい、不意をつけばチャンスが生まれる。動いてはいけない』と動きませんでした。
 そして、仁軌は、その作戦どおり、包囲していた百済軍の不意をつき、新羅への補給ルートを確保しています。
 一方、百済軍の内部には乱れが生じ、完全に攻勢から守勢に回っています。ここから、劉仁軌は勢いづき、一気に侵略を開始します。

十二月,戊申,詔以方討高麗、百濟
 そして、66212月には、いよいよ高句麗、百済討伐の詔が発せられます。
 唐王朝は、東アジアにおける反抗する勢力の殲滅に乗り出します。一方、百済も、「倭国」に支援を要請し、朝鮮半島は、抜き差しならぬ情勢となってしまいました。

九月,戊午,熊津道行軍總管、右威衞將軍孫仁師等破百濟餘衆及倭兵於白江,拔其周留城。初,劉仁願、劉仁軌既克眞峴城,詔孫仁師將兵浮海助之。百濟王豐南引倭人以拒唐兵。仁師與仁願、仁軌合兵,勢大振。諸將以加林城水陸之衝,欲先攻之,仁軌曰:「加林險固,急攻則傷士卒,緩之則曠日持久。周留城,虜之巣穴,羣凶所聚,除惡務本,宜先攻之,若克周留,諸城自下。」於是仁師、仁願與新羅王法敏將陸軍以進,仁軌與別將杜爽、扶餘隆將水軍及糧船自熊津入白江,以會陸軍,同趣周留城。遇倭兵於白江口,四戰皆捷,焚其舟四百艘,煙炎灼天,海水皆赤。
 663年9月、孫仁師等が、白江にて百済の余衆及び倭兵を破ったとあります。さらに、諸将は、加林城が水陸の要衝なので、まずこれを攻めようとしますが、仁軌は「加林は険固だ。急攻したら兵士が傷つくし、ゆっくり攻めたら持久戦に持ち込まれる。周留城は虜の巣窟で群凶が集まっている。悪を除くには、元から絶つことだ。まずこれを攻めよう。周留に勝てば、諸城は自ら下る」と言い、仁師、仁願と新羅王法敏は陸軍を率いて進みます。仁軌と別将杜爽、扶余隆は水軍及び糧船を率いて熊津から白江へ入り、陸軍と共に周留城へ向かいます。
 この時、倭兵と仁軌軍が、白江口にて遭遇します。仁軌軍は、四戦して全勝し、その舟四百艘を焼き、煙炎は天を焦がして海水は朱に染まったとあります。
 これが、『白村江の戦い』と言われています。この戦闘で、倭国軍は、数万人の兵士が命を落としています。当時の、この列島の人口を考えると、主力となる戦力が失われたことになります。この戦いの直後、この列島は、劉仁軌率いる唐軍によって占領征服されてしまいました。

詔劉仁軌將兵鎭百濟,召孫仁帥、劉仁願還。百濟兵火之餘,比屋凋殘,僵尸滿野。仁軌始命瘞骸骨,籍戸口,理村聚,署官長,通道塗,立橋梁,補隄堰,復陂塘,課耕桑,賑貧乏,養孤老,立唐社稷,頒正朔及廟諱;百濟大悅,闔境各安其業。然後脩屯田,儲糗糧,訓士卒,以圖高麗。
 663年9月から10月にかけて、百済や倭国など唐王朝に反抗する勢力は、ことごとく殲滅されてしまいました。
 そして、その戦後処理といったことも描かれています。劉仁軌は、兵を率いて百済を鎮守し、孫仁師、劉仁願は、先に帰国しています。
 戦乱により、百済は、家は焼け、屍は野に満ちていたとあります。この列島も同様の状況下にあったことでしょう。そして、仁軌は屍を埋葬させ、戸籍を作り、村へ人を集め、道路や橋、堤防を復旧させるなどの戦後処理を行っています。さしずめ、第2次大戦後のマッカーサーといったところのようです。
 先に仁軌が言っていましたが、正朔を頒布したとあるように、唐王朝の暦で支配しています。さらに、仁軌は、その後に屯田を修めて、兵糧を蓄え、士卒を訓練し、高麗征服に備えたとあるように、百済やこの列島を高句麗征服のための拠点にしています。すべては、高句麗征服が目的だとしています。

十月,庚辰,檢校熊津都督劉仁軌上言:「臣伏覩所存戍兵,疲羸者多,勇健者少,衣服貧敝,唯思西歸,無心展効。臣問以『往在海西,見百姓人人應募,爭欲從軍,或請自辦衣糧,謂之「義征」,何爲今日士卒如此?』咸言:『今日官府與曩時不同,人心亦殊。
曩時東西征役,身沒王事,並蒙敕使弔祭,追贈官爵,或以死者官爵回授之弟,凡渡遼海者,皆賜勳一轉。自顯慶五年以來,征人屢經渡海,官不記録,其死者亦無人誰何。州縣毎發百姓爲兵,其壯而富者,行錢參逐,皆亡匿得免;貧者身雖老弱,被發即行。

 劉仁軌は、66410月に一時帰国し、皇帝に上言しています。
 『現地の守備兵は疲弊したり負傷した者が多く、勇健な兵は少なく、衣服は貧しくくたびれ、ただ帰国することばかり考えており、戦意がありません』と報告しています。
 つまり、大きな戦闘は終わり、征服した後の占領支配を続けているということが分かります。そして、『かつて、百姓は、自ら募兵し、先を争うように従軍しているのを見たものだ。それなのに、今の兵士はどうしてこうなったのか?』と仁軌が尋ねると、ある兵士は『今までと官府が変わってしまいましたし、人心もまた異なります。かつての東西の征役で戦死しますと、厚遇され、凡そ遼海を渡る者は、皆、勲一轉を賜ったものです。ですが顕慶五年以来、征人は屡々海を渡るのに官は記録しません。戦死しても、誰が死んだのか聞かれもしません。州県が百姓を徴発するたびに、壮にして富める者は銭を渡して誤魔化し合い、皆、免れてしまい、貧しい者は老人でも連行されてしまうのです』と答えています。
 顕慶五年(660)とは、武則天が皇帝を『天皇』という名称に変えたり、新羅の要請で朝鮮半島の制圧に向かうなど、武則天がその支配権力を強めていくちょうどその年に当たります。

臣又問:『曩日士卒留鎭五年,尚得支濟,今爾等始經一年,何爲如此單露?』
 続いて劉仁軌は、その兵士に問いかけています。
 『往年の士卒は鎮に五年留まったが、今の汝等は赴任して一年しか経っていない。それなのに、なんでそんなにくたびれた有様なのだ?』とも問いかけています。
この記述からも分かるように、66410月の1年前にこの列島が征服されています。

陛下留兵海外,欲殄滅高麗。百濟、高麗,舊相黨援,倭人雖遠,亦共爲影響,若無鎭兵,還成一國。今既資戍守,又置屯田,所藉士卒同心同德,而衆有此議,何望成功!自非有所更張,厚加慰勞,明賞重罰以起士心,若止如今日以前處置,恐師衆疲老,立效無日。
 劉仁軌は、この列島のことについて次のように述べています。
 『陛下が兵を海外に留めているのは、高句麗を滅ぼすためです。百済と高句麗は昔からの同盟国で、倭人も遠方とはいえ共に影響し合っています。もしも守備兵を配置しなければ、ここは元の「一国」に戻ってしまいます』
 百済やこの列島に兵を留めているのは、高句麗征服のためだと言っています。
 そして、倭人も百済や高句麗と関係が深いので、引き続き守備兵を配置しなければ、元の『一国』に戻ってしまうと述べています。
 魏志倭人伝のところで、卑弥呼の女王国の国名が『邪馬壹国』とありました。
 この国名が、現在、わが国において『邪馬台国』と解釈されていますが、『壹』は、『一』を意味する文字でしかなく、そして、九州の卑弥呼の勢力である『一国』と、出雲の勢力である『大国』とが統一国家を築くことで国家的象徴である『天』が誕生したと、つまり「一+大=天」といったことは、以前の投稿ですでに述べたところです。
 唐の武将の口から、これらのことを裏付ける証言がここで得られました。
 彼らは、この列島の実質的支配者であった『大国』、出雲王朝の勢力は駆逐したが、そのままにしていたら、もう一方の『一国』に戻ってしまうだけだと、その認識を洩らしています。
 唐王朝は、この列島の歴史を改竄しましたが、はしなくも仁軌の口からその真実の一端が語られていました。
 やはり、卑弥呼のいた女王国の国名は、書き間違いでも、写し間違いでもなく『邪馬壹国』、『壹』、『一』でなければいけなかったのです。
 さらに、『今、既に戍守を造り屯田を置きました。』とも述べています。兵士たちも、この列島を長期間支配するとなると、生活していかなければなりません。そのためには、田畑で食料を生産しなければなりません。ですから、彼らは、ただ征服しただけでなく、この列島にいつまでも居座っていたということも述べてもいます。
 仁軌は、高句麗征服に向けて、士卒と心を一つにしなければ成功しないと鼓舞してもいます。

上深納其言,遣右威衞將軍劉仁願將兵渡海以代舊鎭之兵,仍敕仁軌俱還。仁軌謂仁願曰:「國家懸軍海外,欲以經略高麗,其事非易。今收穫未畢,而軍吏與士卒一時代去,軍將又歸;夷人新服,衆心未安,必將生變。不如且留舊兵,漸令收穫,辦具資糧,節級遣還;軍將且留鎭撫,未可還也。」
 皇帝は、劉仁軌の進言を聞き入れて、守備兵を交代させています。そして、同時に、仁軌へは兵卒達と共に帰国するよう指示してもいます。
 しかし、仁軌は、「国家が海外へ派兵したのは、高麗経略の為だが、これは簡単には行かない。今、まだ収穫が終わってもいないのに、軍吏と士卒が一度に交代し、軍将も去る。夷人は服従したばかりだし、人々の心は安んじていない。必ず変事が起こる。しばらくは旧兵を留め、収穫が終わり資財を揃えてから兵を返すべきだろう。軍をしばらく留めて鎮撫するべきだ。まだ帰れない。」と、述べています。
 唐王朝が、百済やこの列島に派兵したのは、高句麗攻略のためだと、改めてこの列島征服の思惑を述べています。
 そして、『夷人は服従したばかりだ』とあります。隋書で、この列島の倭王が『我は夷人だ』と述べてもいましたが、この列島を支配していた出雲王朝の勢力を征服したが、まだ安心はできない、だから、武将や兵士がみな交代してはいけないと、仁軌は、引き続き、この列島の占領支配のために残っています。
 ここでも、仁軌は、皇帝の指示と異なる判断をしています。
 一武将が、そうたびたび自分の考えで行動することは、皇帝に反抗していることにもなりかねません。あるいは、皇帝ではなく、実権を掌握していた武則天の指示で動いていたということも考えられます。
 どちらにしても、劉仁軌は、この列島の占領支配、そして、高句麗征服に向けた拠点にするために、引き続きこの列島に残っています。
 北九州にある大宰府跡は、『都督府跡』ともされています。検校熊津都督だった劉仁軌は、そこをこの列島支配の拠点としていたのかもしれません。

八月,壬子,同盟于熊津城。劉仁軌以新羅、百濟、耽羅、倭國使者浮海西還,會祠泰山,
 665年8月、劉仁軌は、新羅、百済、耽羅、倭国の使者が海西に還ったので、泰山の祠で会談したとあります。

麟德二年、封泰山、仁軌領新羅及百濟、耽羅、倭四國酋長赴會、高宗甚悦、擢拜大司憲。
 こちらは、旧唐書の劉仁軌伝にある記述ですが、同じく麟徳2年(665)に、劉仁軌は、新羅、百済、耽羅、倭国の4国の酋長を連行し、李治高宗は、甚だ悦んだとあります。
 つまり、劉仁軌は、663年にこの列島を征服し、その占領下で唐王朝に反抗する勢力を一掃しました。そして、その平定もある程度完了したと見たのでしょうか、665年に周辺諸国の王を唐に連行しています。
 劉仁軌の、勝利の凱旋帰国といったところのようです。
 征服された倭王は、すでに王ではなく、酋長とされてしまいました。
 その囚われた倭王は、671年に帰国したと日本書紀にもあるように、征服された出雲の勢力からの反抗封じでしょうか、しばらく唐に抑留されています。
 日本は、隋や唐の属国支配に対し、果敢に対抗しましたが、663年秋、白村江の戦いで主力部隊が殲滅され、手薄になった所を、劉仁軌率いる唐王朝軍に占領されてしまいました。同年1118日(旧暦1010日)、当時の都である「邪馬台(臺)国」、すなわち出雲王朝は、滅ぼされてしまいました。それは、古事記に「国譲り」として残されています。
 そして、その時、唐王朝が惨殺した大国主命や数多くの人々を、その祟りを恐れ、今も出雲で弔っています。それが、毎年旧暦1010日夜7時、稲佐の浜での神迎えの神事に始まる「神在祭」です。


8、唐王朝による支配体制が確立
 唐王朝は、この列島を占領・征服するのは、高句麗攻略のためだとしていました。もしそれが本当の理由であったのなら、668年に唐王朝は高句麗を滅ぼしていますから、676年に朝鮮半島から軍を撤退させたように、こんな南海の孤島からも、さっさと軍を引いているはずです。しかし、唐王朝は、引き続きこの日本を占領したまま支配し続けます。それは、本当の動機が水銀鉱脈の略奪にあったことを物語っています。それゆえ、彼らは、794年、大きな水銀鉱脈のあった丹波と伊勢の間に位置する平安京に拠点を構えています。丹は水銀を意味しています。丹波とは、すなわち水銀の産地「丹場」を意味します。その丹波国一宮の出雲大神宮から平安京までは、10kmほどしか離れていません。
 そして、701年、唐王朝は、日本における支配体制を確立させています。それが、大宝律令です。
 そこにあっては、西暦190年頃、スサノオ尊と卑弥呼によって築かれ、400年にわたって繁栄してきていた連合国家の体制も歴史も、ことごとく排除され、その存在すら消されてしまいました。
 そこに残されたのは、唐王朝の傀儡国家に変わり果ててしまった哀れな日本の姿です。

長安三年、其大臣朝臣真人來貢方物、朝臣真人者、猶中國戸部尚書、冠進德冠、其頂為花、分而四散、身服紫袍、以帛為腰帶。真人好讀經史、解屬文、容止温雅。則天宴之於麟德殿、授司膳卿、放還本國。

旧唐書によると、長安三年(703年)、日本の大臣の朝臣真人が方物を貢献に来たとあります。朝臣真人は、中国の戸部尚書のようで、冠は進德冠、その頂は花となし、分けて四方に散らし、身は紫の袍を服とし、白絹を以て腰帯としているとあります。さらに、真人は好く経史を読み、文章を解し、容姿は穏やかで優美だったとも述べています。
 武則天は、これを麟德殿に於ける宴で司膳卿を授けて帰国させたとしています。
 この703年に朝貢した朝臣真人への対応は、信用できないし態度も横柄だとされた648年の使者と大きく異なります。見た目も立派で理解力もすばらしいと大絶賛され、その容姿が中国の戸部尚書のようだということは、中国様式の服装をしていたようです。 
 その朝貢した使者からは、唐王朝の支配下になどないと対抗していた出雲王朝の毅然とした姿勢は微塵も感じられません。完全に、日本が唐王朝の植民地国にされてしまったことを物語っています。
 それ故、この列島の征服を指令した武則天は、その支配下となった日本から来た使者が自らの前に跪く姿を見て、すこぶるご満悦だったようです。
 それ以降、唐王朝の勢力は、唐(藤)を源(原)にするという意味で「藤原氏」を構成し、王朝を補佐する佐藤、近くの近藤、遠くの遠藤、伊賀の伊藤、加賀の加藤などなど、各地に支配勢力として派生していきます。
 そして、彼らは、荘園領主として、日本の人々をその支配下に置きます。それは、地主と小作人という関係で延々と続くことになります。
 また、彼らは律令制度とともに身分制度も導入し、日本の人々を徹底した差別支配の下に置きます。それが、位階制度と言われるもので、皇族は、1品から4品までの4階、それ以下の臣下は、正1位から従1位、正2位従2位と続き、上下があったり大初位・小初位なども含め、30階にランク付けされています。この位階制度は、手直しされながら、今に至るまで続いています。
 彼らは、大陸に於いて貴族として特権支配を築いていましたが、同様にこの日本でも貴族として、日本の人々を隷属下に置きます。
 つまり、我が国の人々が差別されているその原点は、唐王朝による列島支配にあったのです。唐王朝の勢力への貢献度でそのランクが決められます。その基本的支配体制は、律令制の時代から今に至るもその基本は変わっていません。


9、唐王朝が滅ぼされ、日本に逃避してくる
 この日本を植民地支配下にした唐王朝ですが、その本国唐において、その圧制への反発で各地に反乱が起こります。黄巣の乱(875884)で長安は陥落、穀倉地帯は壊滅し、江南地方は荒廃してしまいます。唐王朝は反乱軍を寝返らせるなどの工作で反乱を一時沈めます。
 その黄巣の乱を鎮圧した功績で、節度使朱全忠が、901年梁王となります。しかし、朱全忠は、門閥貴族など唐王朝の残党を残らず一掃し、907年、ついに、唐王朝を滅ぼしました。
 唐王朝貴族は、各地で惨殺され、長安でも黄河に放り込まれるなど、徹底した殺戮の憂き目に会い、大陸から一掃され消滅します。それは、散々民衆を虐げ収奪してきたことによるもので、自業自得と言う他はありません。
 そして、唐王朝の一部は、その反乱による殺戮の手を掻い潜り、この列島に逃れてきました。その時に、奪われないようにと、この列島に持ち込んだのが、東大寺正倉院に今にまで保管されている膨大な宝物です。そのすぐ側にある聖護蔵にも、隋・唐代の経巻がおよそ5千巻も残されています。
 この列島に逃避してきた唐王朝の残党勢力は、大陸から散々蔑視していたこの列島に身を置くことになるわけですから、それ以降は自らが蔑視されることになってしまいます。スーパー自己中の彼らが、そんなことに耐えられるはずもありません。そこで、彼らは、この列島が蔑視されていたそれまでの歴史を消し去り、彼らにとって高貴な「新しい歴史」を創作しました。それが、新唐書に残されました。とは言え、彼らにとって、この列島の日本の人々は、あくまで支配下の奴隷に過ぎません。そして、出雲王朝が命名した「日本(ひのもと)」という呼び名など使えるかということで、その後「日本(にほん、にっぽん)」と変えてしまいました。


<終わりに>
 「釈日本紀私記」には、八世紀後半に、淡海三船が、神武天皇から元正天皇までの諡号を一括撰進したことを残しています。
 つまり、我が国における天皇は、聖武天皇に始まり、それまでの神武天皇から元正天皇までは創作されたものだということになります。同時に、今に伝わる古事記・日本書紀は、その時以降に創作あるいは改変されていることになります。
 天皇という名称をこの世に生み出したのは、武則天でした。ですから、我が国においては、武則天は、天皇の祖先「天照」として伊勢神宮で祀られています。それを象徴するかのように伊勢神宮の神紋は「花菱」で、別名が「唐花」と呼ばれています。そして、当時の都があった出雲に今にまで残る出雲国造家の神紋は、その花菱に剣が組み込まれた「剣花菱」です。唐王朝が剣で以って征服したことを物語っています。ちなみに、出雲大社の神紋は、「有」です。有という文字は「十」と「月」で構成されています。つまり、「十月」が出雲大社の象徴で、663年11月18日、旧暦の10月10日に唐王朝によって征服されたことを今に伝え残しています。
 武則「天」の幼名・本名は、武「照」で、まさしく「天照」です。その武則天は、自らが即位すると、「聖神皇帝」を名乗っています。聖なる「神」であるところの「武」則天で「神武」です。つまり、天皇の祖先が「天照」だとか、初代天皇が「神武」だとしているのは、我が国の支配勢力のルーツは、武則天にあることを伝え残していました。ですから、「天照」は、出雲の象徴である「スサノオ尊」の姉とされているのです。姉と弟というのは、支配の上下関係を意味しています。
 その武則天の手下が、この列島を制圧してその後も支配し続けたので、その勢力は武氏、つまり武士です。武則天の父の名は「武士彠」で、3人の兄は、「武士稜・武士譲・武士逸」です。唐王朝貴族とその手下の「武士」が、この日本の人々を制圧し続けたというのが、我が国の基本的支配構造です。
 平氏、源氏、北条、徳川、明治維新、政権交代などと時代が変わったかのように思わせていますが、支配勢力の手下が変わっているに過ぎません。野球で言えば、監督が同じで、リリーフピッチャーが次々と変わるようなものです。
 このように、日本の人々は、1300年にわたって変わることなく、唐王朝の残党勢力の支配下に置かれ続けています。それに気づかないようにしているのが、記紀認識なのです。
 また、民族的には、大陸において、紀元前、北東アジアの胡の勢力と漢民族が激しく対立していましたが、今は、大陸の漢民族と、この列島を支配下にする鮮卑という対立構図になっています。つまり、東アジアにおいては、紀元前から激しい民族抗争にあり、基本的には、匈奴対東胡・鮮卑、そして漢民族対東胡・鮮卑という民族的対立構図は今に至るまで延々と続いているということになります。豊臣秀吉の頃、そして明治維新以降今に至るまで、この列島から大陸へ侵略しようとするその根底には、この民族抗争があります。つまり、この列島に今にまで残る唐王朝の残党勢力である東胡・鮮卑が執拗に企む大陸侵略とは、東アジアの制圧、そして支配地の奪還という民族的動機に基づいています。すなわち、唐王朝再興こそが、その大陸侵略の動機です。こういった民族抗争の歴史を消し去ったのが、今もこの列島を支配下にしている唐王朝の残党勢力であり東胡・鮮卑なのです。
 邪馬台国をはじめ我が国の古代史の様々な謎は、我が国の歴史が唐王朝によって改ざんされたことを認識できなければ永遠に解き明かすことはできません。また、その唐王朝によるこの列島の占領征服が認識できなければ、古代史のみならず、今の日本の実態も、自らの置かれている立場も理解し得ません。同時に、それは、永遠に日本の人々が唐王朝の残党勢力の支配下に置かれ、騙され収奪され続けることをも意味しています。
 一人でも多くの皆様が、真実の歴史に到達されんことを切に願うばかりです。
 なお、字数の関係もあり、概略のご紹介となりましたが、インターネットでも詳細を公開していますので、そちらもぜひご参照ください。


天皇のルーツは武則天にあり (17.1.27)

新作 動画 新説日本古代史研究 第5回 中国の史書に都『やまと』を求めて(14:51) 

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私はこうして「邪馬台国」に到達した!

邪馬台国検証

謎を解くカギは中国の史書にあった

唐王朝による列島征服の軌跡

                                   

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