私はこうして『邪馬台国』に到達した!
(17)滅ぼされた『邪馬台国』 

1)『邪馬台国』はどうなった?
 万葉集をきっかけとして、わが国の古代史上、最大の謎とも言える『邪馬台国』は、出雲に存在していたというところに至ることができました。
 そうなりますと、では、その『やまと』、あるいは『邪馬台国』はどうなったのでしょう。
 その顛末を明らかにしなければならなくなりました。
 

2)古事記と出雲大社に残されていた痕跡
 出雲にあった都が、どうなったのかといった歴史が何か残されていないかと考えますと、まず浮かぶのは、古事記に登場する『国譲り』のストーリーです。
 天照大神の命を受けて、武甕槌神(たけみかづちのかみ)は、出雲の伊耶佐の小浜、今で言う稲佐の浜で剣を突き立て、『天照大神は、自分の子どもにこの国を治めさせようと言われているがお前の気持ちはどうだ』と大国主命に迫ります。大国主命は、二人の子どもの神に相談するのですが、つまり家臣でしょうか、その二人とも武甕槌神に太刀打ちできず、結局、大国主命は国を『献上』すると言ったとされています。
 その大国主命は、出雲大社で奉られていて、古事記の国譲りの場所は、出雲大社から西およそ500メートルのあたりにある砂浜だとされています。
 そこがどういった場所なのかと言えば、毎年旧暦の10月10日に神迎え祭が、そして、その翌日から1週間、神在り祭が仮の宮を中心として執り行われています。その仮の宮は、今で言う奉納山、古代における天の香具山のふもとに位置しています。出雲大社に残る古絵図では、仮の宮は、当時の浜辺に位置しています。
 その神在り祭には全国の神々が集まり、他の地域では『神無月』ですが、出雲では『神有月』と言われます。そして、その神在り祭の期間中、出雲大社の周辺では、大きな音をたてない、歌舞音曲の類いは控える、大工仕事はしないなどなど、ほとんど謹慎し、静かにしているので『御忌みさん』とも呼ばれています。
 古事記では、天照大神が天の岩戸に隠れた時に、八百万の神々は、その前で賑やかに踊りを繰り広げます。その神々が、全国から出雲に年に1度集まるのですから、もっと賑やかにお祭り騒ぎでもするかと思えば、ほとんど葬儀か法事のごとくです。
 これらの一連のことから推測され、行き着いた結論は、出雲にあった都は滅ぼされたということでした。そして、そこに居た大国主命は抹殺され、その命日が旧暦の10月10日で、毎年その冥福を祈って、全国の神々が集合し、神事が執り行われているという認識にも至りました。その集合場所である仮の宮の位置こそが、大国主命の抹殺された現場なのでしょう。
 では、出雲の都『やまと』、『邪馬台国』を征服したのはどういった勢力だったのでしょうか。
 それは、出雲大社に残されていました。出雲大社の出雲国造家の神紋は、亀甲に剣花菱で、剣花角とも言われます。花菱は、唐花、唐花菱とも呼ばれ、その花菱に剣が組み込まれていますから、まるで剣で唐が征服したと伝えているようです。
 そして、出雲を征服させる指令を出したのは、天照大神ですが、今もわが国の最強の神社である伊勢神宮で奉られていて、その神紋は花菱です。剣は描かれていませんから、唐そのものを意味しているようにも見えます。
 こうしたことから、この列島の当時の都『やまと』、つまり、『邪馬台国』は、唐王朝によって滅ぼされたのではないかということが見えてきました。





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