(10)『倭の5王』は、邪馬台国の大倭王だった
1)宋書
倭國
在高驪東南大海中、世修貢職。高祖永初二年、詔曰 「倭讃萬里修貢、遠誠宜甄、可賜除授。」太祖元嘉二年、
讃又遣司馬曹達奉表獻方物。讃死、弟珍立、遣使貢獻。自稱使持節、都督、倭、百濟、新羅、任那、秦韓、慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭國王。
南朝宋の史書は、488年に完成したとされています。
宋書では、所謂『倭の5王』と言われる『讃、珍、済、興、武』についてのみ書かれています.。そこには、『使持節、都督、倭、百濟、新羅、任那、秦韓、慕韓六國
諸軍事、安東大將軍、倭國王』と称していたとあります。それらから、倭王は、この列島のみならず、朝鮮半島においても大きな影響力を持っていたと考えられます。
しかし、魏志倭人伝にあったような風土や文化に関わるような事柄には、一切触れられていませんし、卑弥呼や女王国についての記述もありません。
2)『邪馬台国』に居た『倭の5王』
順帝昇明二年、遣使上表曰:「封國偏遠、作藩于外。自昔祖禰躬[偏手旁右環]甲冑、跋渉山川、不遑寧處。東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國
また、倭王である武が、宋の順帝へ昇明2年(478)に、上表文を送っています。それによると、『倭国は中国から遠く、わが祖先は、自ら甲冑を着て山野を駆け巡り、東へ西へと諸国を征し、また海を渡って海北の国もその支配下にしてきた』と述べています。つまり、3世紀から5世紀にかけて、この列島には大きな力を持つ勢力が台頭してきていて、それが大倭王であり、『倭の5王』の勢力だったのです。
その上表文は、さらに、高句麗を討つように奨めています。倭王が、朝鮮半島まで攻め入ったものの、高句麗と対峙していたようです。これは、好太王碑に記されている記述ともとも一致します。つまり、この大倭王であるところの『倭の5王』の居た場所が『邪馬臺国』、今で言うところの『邪馬台国』で、この列島の都だということになります。
そこが、追い求めていたこの列島の都『やまと』なのでしょうか。
少しずつですが、『やまと』や、『邪馬台国』の手がかりがつかめてきたようです。
では、その『やまと』、あるいは『邪馬台国』は、どこにあったのでしょう。
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