(11)閃光が走る、『えっ、邪馬台国は出雲?!』
1)隋書
倭國在百濟、新羅東南、水陸三千里、於大海之中依山島而居、魏時、譯通中國。
三十餘國、皆自稱王。夷人不知里數、 但計以日。其國境東西五月行、南北三月行、各至於海。其地勢東高西下。都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。
唐の時代、636年に隋書が作成されています。そこには、今まで以上に興味深い資料が盛り込まれています。倭国の紹介があった後に、その都は、邪靡堆、つまり魏書にも登場している『邪馬臺』であると述べています。
つまり、魏書には、『邪馬台国』について記載されているということになります。先に、検証した魏書のどこにも都を意味する『邪馬臺』といった表現は出てきませんでした。ですから、『所謂』としています。魏書には、直接的ではなく、都であるところの『邪馬臺』を意味することが描かれていると隋書では述べていました。
では、魏書の何処が、その『邪馬臺』の記述に相当するのでしょうか。これまでの史書では、卑弥呼は、あくまで女王国の卑弥呼であって『邪馬臺』にいる王という表現はどこにも出てきませんでした。唯一、後漢書に『大倭王』の居するところの『邪馬臺国』という記述がありました。
つまり、魏書に登場していた『倭王』の地が、『邪馬臺』だということになります。
では、魏書を、もう一度振り返ってみましょう。
景初二年六月,倭女王遣大夫難升米等詣郡,求詣天子朝獻,太守劉夏遣吏將送詣京都。其年十二月,詔書報倭女王曰:「制詔親魏倭王卑彌呼
景初2年(238)6月に、倭の女王が使者を送り様々な貢物を献上し、その同年12月に魏は、卑弥呼に詔書と金印や銅鏡などを与えたとあります。
正治元年,太守弓遵遣建中校尉梯雋等奉詔書印綬詣倭國,拜假倭王,并齎詔賜金、帛、錦?、刀、鏡、采物,倭王因使上表答謝恩詔。其四年,倭王復遣使大夫伊聲耆
卑弥呼が魏に朝貢した2年後、魏は、ここに登場する『倭王』に使者を送り、詔書と印綬や様々な品物を授けています。それに対して、倭王は、その使者に謝恩の意を示し、同4年に、使者を魏へ送り様々な貢物をして返礼したとあります。
景初2年には、倭の女王卑弥呼が魏に使者を送り、魏から詔書や金印などを授かっており、その詔書では、『哀汝』という表現が2度出てきます。ここから、魏は、卑弥呼を下に見ていることが分かります。
ところが、倭王に対しては、『詣、奉、拝』といった、仰ぎ見る言葉で表現しています。ここに描かれている倭王こそが、隋書にある『則魏志所謂邪馬臺者也』と指摘している部分だと思われます。
ですから、魏書に登場している倭王は、倭の5王から、さらに隋書の時代へと続いていたということになります。つまり、魏書の倭王のいた地は、隋書の時代へと続くこの列島の都だったということでもあります。
其國書曰「日出處天子致書日没處天子無恙」云云。帝覧之不悦、謂鴻臚卿曰:「蠻夷書有無禮者、勿復以聞。」
隋書では、大業3年(607)、倭王が煬帝に国書を送り、その国書に隋王朝が激怒したことが記されています。
そして、その翌年、隋は倭王への使者を送ります。
2)『邪馬台国』発見!
明年、上遣文林郎裴清使於倭國。度百濟、行至竹島、南望[身冉]羅國、經都斯麻國、迥在大海中。又東至一支國、又 至竹斯國、又東至秦王國、其人同於華夏、以爲夷州、疑不能明也。又經十餘國、達於海岸。自竹斯國以東、皆附庸於倭。倭王遣小徳阿輩臺、従數百人、設儀仗、鳴鼓角來迎。後十日、又遣大禮哥多毘、従二百余騎郊勞。
倭王のもとに使者を送るということは、その地は、魏書の時代、つまり卑弥呼の時代から連綿と続くこの列島の都で、『邪馬臺国』、そして『邪馬台国』だったということにもなります。そうなりますと、その使者の足取りをたどると、『邪馬台国』へ行けることになるのです。では、一緒に邪馬臺国へ行ってみましょう。
その使者は、百済、竹島、対馬などを経由して、一支国、竹斯国へとやってきます。竹斯国とは、筑紫国であり、北九州に上陸したことになります。そこからまた東に行くと秦王国があり、そこの人々は中国と同族のように見えるが真偽は不明だともあります。そして、また10余国経ると『海岸に出た』とあります。
さて、筑紫国から東へ行き、さらに行くという事は、方向としては東方面へ向かっていると考えられます。筑紫国から東の国は、皆倭に附庸しているとあることからも、本州に渡って、東へ向かったということになります。
『達於海岸』
つまり、内陸部を通り、あるいは山地を越えると『海に出た』という表現をしています。瀬戸内海を船で東へ行く人は、こういう表現をすることはありません。では、本州を東に向かい『海に出た』という思いをするとしたらどういう行程なのでしょう。瀬戸内の海岸沿いを東にずっと行けば、常に右手に海が見えています。そうなると、考えられるのは、中国山脈を越えたということになります。
つまり、出雲街道、あるいは石見街道と呼ばれる道が今でも残っていますが、それを経て日本海へ抜けたのではないでしょうか。そして、峠越えをしたところで、一行を歓迎する式典が催されたようです。数百人で出迎え、鼓角が鳴らされたとありますから、相当な歓迎振りだったことが伺えます。そして、10日ほどした頃に、200騎ほどの騎馬隊とともに迎えがやってきます。
ここで、私の中に閃光が走ったように感じました。
『えっ、邪馬台国は出雲だった?!』
つまり、中国山脈を越えて日本海側に出て、そこに騎馬隊が迎えにやってきたということは、邪馬臺国は騎馬民族たる出雲の勢力だったのではないかと、閃いたのです。
その時の感動は、一生忘れることはできません。
『邪馬台国は、出雲だった・・・』
しばらくは、呆然としていました。
その使者が、倭王の地にたどり着いたように、私も、卑弥呼の時代から続く、その倭王の地、つまりそれこそが『邪馬台国』であり、この列島の都にたどりつくことができました。
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