私はこうして『邪馬台国』に到達した!
(9)卑弥呼は『邪馬台国の女王』ではなかった  

1)三国志魏書烏丸鮮卑東夷伝倭人の条(魏志倭人伝)  
 確かに、魏志倭人伝には、女王卑弥呼が登場しました。しかし、よく言われるところの『邪馬台国の女王卑弥呼』を意味するような記述はどこにもありません。『邪馬台国』などといった国名も登場していません。
 どういうことなのでしょう。
 
女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種
 その女王国から東に海を渡って行くとまた国があるという記述がありました。ということは、その女王国は、九州だということになります。そうなりますと、女王卑弥呼が奈良に存在していたかのようなことが言われることもありますが、それは全くあり得ないことだということが分かりました。
 そして、女王国の国名は『邪馬壹國』で、その『壹』は、数字の『一』であって、魏志倭人伝には、『邪馬台国の女王卑弥呼』という認識はないということも分かりました。また、魏志倭人伝からは、一番の目的であるこの列島の都『やまと』の姿を見出すことができませんでした。


2)後漢書 
 後漢書は、5世紀頃に作られています。
 後漢は、魏よりも古い国ですが、魏志倭人伝よりも後の時代に作られているので、魏志倭人伝よりも新しい記述が見られます。

倭在韓東南大海中、依山嶋爲居、凡百餘國。自武帝滅朝鮮、使驛通於漢者三十許國、國皆稱王、世世傳統。其大倭王居邪馬臺國。
 最初は、漢書にあったような出だしですが、前漢の武帝が、朝鮮半島を制圧して以降、30国が使者を送っていたとあります。
 その次には驚くべき記述がありました。各地にある国にはそれぞれ王がいたが、そこには大倭王がいたとあります。この列島に大倭王が存在していたと述べています。キングオブキングということです。そして、その大倭王は、『邪馬臺国』に居たとあります。中国の史書において初めて、『邪馬臺国』が登場しました。今のわが国の常用漢字には、この『臺』の文字が無いため、『台』という文字が当てられています。つまり、この後漢書に登場した『邪馬臺国』こそが、今のわが国で論じられている『邪馬台国』でした。
 では、その『邪馬臺国』、つまり『邪馬台国』には、卑弥呼がいたのでしょうか。
 
自女王國東度海千餘里至拘奴國、雖皆倭種、而不屬女王。
 この列島の大倭王とは別に、女王国の記述もありました。魏志倭人伝にもありましたが、ここにも女王国から海を渡って東には国があるが、その国は女王国には属していないとあります。つまり、この列島のキングオブキングであるところの大倭王とは別に、女王国があり、その女王国は九州にあったと、ここでも述べています。つまり、卑弥呼は、邪馬台国の女王などではなく、女王国であるところの『邪馬壹國』の女王であったというのが、魏志倭人伝と後漢書の認識だということが判明しました。
 したがって、後漢書に登場した『邪馬臺国』の大倭王のいた地こそが、この列島の『都』だということになります。とうとう、本来の目的であるこの列島の都が登場しました。
 では、その都は、万葉集にも登場する『やまと』だったのでしょうか。そして、その地はどこにあったのでしょう。
 わが国のどこを探しても見つからなかった、『やまと』の手がかりをやっと見出すことができました。




邪馬台国        古代史       トップ       後ろ     次


邪馬台国発見

Copyright (C) 2009 みんなで古代史を考える会 All Rights Reserved.