13、
暦の上ではすでに冬になっていたが、まだ暖かい日が続いていた。
その穏やかな日差しの射す中庭で、弁当を食べている学生の姿も見える。
すでに昼食を済ませた由美と玲子は、自動販売機で飲み物を買ってベンチに腰掛けた。
「由美、この前のコーラスの練習に来てなかったわね」
「お父さんと旅行していたのよ」
「へえ、そうなの。どこへ?」
「北九州よ」
「えらく遠方まで行ったのね。本当にお父さんとなの?」
「当たり前よ。誰と行くというのよ」
「そうね。由美には、今、彼氏らしい姿が見えないものね」
「余計なお世話よ」
当たっているだけに、由美も辛いところであった。
「それで、どうして北九州なの?」
「お父さんと、万葉集の謎を探っていたら北九州へ行くことになってしまったのよ」
「万葉集の謎?」
「古代文学で提出するレポートの題材にちょうどいいかなと思って」
「ええっ、それで北九州まで行くなんてすごいわね」
玲子が驚くのも無理はない、レポートの題材のために北九州まで行く者はまずいないだろう。
「実は、お父さんも万葉集に疑問があったみたいで、この前一緒に滋賀や奈良を周ったのよ」
「奈良にも行ったんだ」
「その時に、万葉集は北九州を詠っているのではないかということになってね。それでお父さんが調べに行くと言い出したのよ」
「あなたのお父さんも、えらく万葉集に熱をあげているのね」
「凝り性だから」
昼食を終えた学生が、次々と庭に出てくるので周辺がだんだんと賑やかになってきた。
「それで、どうだったの」
「万葉集は、どうも北九州を中心とした倭国を詠っているように思えるの」
「へえ、それは面白そうね」
「玲子は、どんなレポートを考えてるの」
「私のは、そんな面白い内容じゃないわ」
「少しでいいから教えてよ」
「じゃあ少しだけね。私は、出かけることは難しいから、図書館で調べているの」
「それで、何か分かった?」
「まだ、途中なんだけどね。万葉集は個人集じゃないかと思われるのよ」
「個人集?」
「万葉集は、中国の六朝文化の影響が大きいみたいで、六朝文化では、集と付く作品名は個人の作品集だそうよ」
「ふうん。でも、万葉集は多くの人の歌が集められているわよね」
「そうなのよ。だから、まだ調べているところなの」
次第に午後の講義の始まる時間が近づいてきたので、立ち上がる姿が目に付くようになった。
「それも、難しいテーマね」
「頭を抱えちゃうわ」
「まあ何とか頑張って提出しようね」
二人も、午後の講義の時間が来たので、教室に向かった。
その夜、由美は父にメールを送ることにした。
『今日、玲子が言っていたことを、一応、お父さんにも知らせておこうかな』
そして、由美が風呂から上がり、寝ようとしたら父から返信が届いた。
{先日はお疲れ様。あの時注文した大牟田の本が届いた。法隆寺についての本は、図書館に探しに行こうと思っている。あの九州での感動が未だ覚めやらぬ日々だよ。万葉集が、個人集だという見方は中々面白い。しばらくは、万葉集から離れられないかな}
『お父さんは、引き続き万葉集に没頭しているみたいね。私もレポート提出に向けて頑張ろう』
由美は、父のメールに少し励まされた。
次の日、父は図書館に出かけた。
奥の方にある古代史のコーナーに行くと、先日福岡市の図書館で見た法隆寺の移築についての本があった。
父は、その本を手に取り閲覧コーナーのテーブルに座った。
過去に行われた法隆寺の調査結果から、移築についての詳しい検証がなされていた。
法隆寺の建材には、周囲と異なる新しい木材が所々に使用されていて、それは、後に差し変えられたのではなく移築時に新しい材料が使用されたからだと述べている。
さらに、観世音寺に残る絵図より、京都の三十三間堂も観世音寺から移築されているとあった。
当時、法隆寺を始め数々の寺院が倭国から奈良周辺に移築されたのだろうか。
あるいは、その対象は全国の寺院に及んだのかもしれない。
父は、その本を手にすると受付に行き、借りる手続きをした。
そして、帰ろうとして、ふと思い出した。
『そうだ。聖武天皇の書を見ていこうか』
父は、正倉院の宝物集を探した。
正倉院は、北倉、中倉、南倉に分かれていて、その北倉を紹介する本の中に雑集の一部が載っていた。
『聖武天皇の字は、やはり綺麗だ』
父は、少し繊細な筆運びに見とれていた。
そして、あの奈良を周った時のことが思い出された。
『奈良は良かったなあ。また行きたいよ』
娘の由美との楽しい旅行が、忘れられない父であった。
奈良国立博物館で聖武天皇の宸筆を教えてくれた男性の言葉も記憶に残っていた。
―「天皇家の血筋ですから代々受け継いでこられたのでしょう」
正倉院に収められている聖武天皇の遺品の多さについて聞いた時に、その学芸員と思われる男性が教えてくれた。
『あの人が教えてくれたので、聖武天皇の字を見ることができたんだよなあ』
父はその男性に感謝したが、その時ふと疑問に思った。
『でも、代々受け継いで来られたって、その代々とは?』
新しく生まれた日本国にそんな歴代の王家は存在しない。
奈良の地に、海外から多くの美術品や工芸品が集まるほどの王朝がすでにあったとは考えにくい。
『ということは・・・』
その時、父の中である考えが浮かんだ。
『はたしてどうだろう。それだとみんな繋がってくるんだけどなあ。あり得ない話だろうか。そう言えば、万葉集は、個人集だとも言っていたよ』
倭国、白村江の戦い、倭国の滅亡、日本国の誕生と倭国の吸収、日本書紀、万葉集、東大寺正倉院にある聖武天皇の宝物、北九州と近畿地方の地名の同一などが、父の頭の中で駆け巡った。
『万葉集は、タイムカプセルとも言える。そしてそれはある人の手に依る時代を超えた暗号、あるいは後世の人々へ託したメッセージなのかもしれない』
父は、正倉院の宝物集を棚に戻し、図書館を出た。
国がまるごと歴史から消されようとしている時に、人はそれをただ時代の流れだと眺めていたのであろうか。
命がけで抵抗する人もいれば、それを書き残そうとする人もいたであろう。
父の胸には、そういう人々の思いが伝わってくるように思えた。
父は、家に帰ると由美にメールを送った。
{今日は、図書館で法隆寺の本や正倉院の宝物集を見ていて、謎を解きほぐすある考えが浮かんできたよ。そして、今まで滋賀や奈良、北九州で調べてきたことが一本の線で繋がった。自分でも驚いてしまった。帰ってきた時には、ぜひ、由美の意見も聞かせて欲しい。それまで、そちらで調べて何か分かったらまた教えてくれるかな}
しばらくして、返信が届いた。
{新しい発想が浮かんだみたいね。また聞かせてください。年明けにはレポートを提出しようと、今、頭を悩ませているところです。年末コンサートが二十六日に終わるので、二十七日には帰ります}
|