謎を解くカギは中国の史書にあった 
旧 唐 書

倭國者、古倭奴國也。去京師一萬四千里、在新羅東南大海中、依山島而居。東西五月行、南北三月行。世與中國通。其國、居無城郭、以木為柵、以草為屋。四面小島五十餘國、皆附屬焉。其王姓阿毎氏、置一大率、檢察諸國、皆畏附之。設官有十二等。  

 隋の後、唐は618年に建国されて、当時、世界最大の一大帝国を築きましたが、907年に滅んでいます。その唐を記した旧唐書が、945年、後晋時代に作成されました。
 冒頭、倭国とは古の倭奴国なりで始まっています。倭奴国は漢から金印を授かっていますし、『世與中國通』とあるように、中国との交流が深かったことを伝えています。
 そして、隋書にあったような『天』や『一大率』、『官位12階』にも触れています。
 
 
貞觀五年、遣使獻方物。太宗矜其道遠、敕所司無令歳貢、又遣新州刺史高表仁持節往撫之。表仁無綏遠之才、與王子爭禮、不宣朝命而 

 618年に李淵が、隋を滅ぼし唐を建国しますが、貞観5年(631)に倭国が朝貢してきたとあります。隋王朝とは、国交断絶といった状況でしたし、大陸の王朝との交流を望んでいたのかどうかは分かりませんが、出雲王朝は、第2代皇帝太宗李世民の時代に使者を送っています。唐の世情も落ち着き、とりあえずのごあいさつといったところだったのでしょうか。
 ところが、太宗は、あまり友好関係を望んではいなかったのか遠方だから来なくてよいと、わざわざ使者を送っています。その使者は、倭国の王子、つまり太子か家臣ということでしょうか、礼を争って朝命を述べることなく帰国しています。
 先の隋との関係においても、出雲王朝が属国扱いされることに対し、反発していました。唐王朝の使者は、朝命を伝えるという立場で来ていますから、出雲王朝は、唐王朝に命令されることになります。
 出雲王朝は、当時で400年以上にもなる歴史と伝統を持っています。その出雲王朝が、いくら大陸の王朝とは言え、最近誕生したばかりの国から、命令されたり属国扱いされる謂れはないと思ったとしても当然のことかもしれません。
 隋も唐も貴族社会ですから、自国民に対しても周辺諸国に対しても徹底した差別支配をしている国です。出雲王朝にとっては、隋・唐王朝の周辺諸国を蔑視する対応が許せなかったのは、ごく当たり前のことだとも言えます。
 むしろ、その当時の状況下では、むしろ賞賛されるべきことなのかもしれません。
 

至二十二年、又附新羅奉表、以通起居。日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本為名。或曰:倭國自惡其名不雅、改為日本。或云:日本舊小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中國疑焉。

 そして、貞観22年(648)に、また使者を送っています。新羅とともに行っているようですから、相当重視した使者だったと考えられます。
 ここで、中国の史書に、初めて日本国が登場します。その使者は、日本国の成り立ちに関する、重要な事柄を述べています。
 『日本国は、倭国の別種なり』とあります。『倭国は、古の倭奴国なり』とありましたが、日本国はそれとは別の民族であるという認識を示しています。つまり、倭国は中国と深い関係にあったと述べていましたから、日本国は、そのテリトリー外の民族だということになります。
 また、倭国という名前が良くないので日本国に改めたともあります。確かに、倭というのは中国王朝から見た蔑称です。大陸に王朝が誕生して以来、蔑視されてきているこの列島に対する認識を改めよと唐王朝に突きつけているとも言えます。
 まず、日本国と国名を改めた動機が述べられています。日本国は、日の辺りにあったので日本国としたとあります。隋書には、『天』をもって兄となし、『日』をもって弟となすとありました。
 それは、国家的象徴と、実質的支配者を意味していました。今で言う、皇居と永田町の関係でもあります。当時で言えば、高層の神殿のあった出雲大社の地と、大国主命のいた出雲国庁跡地、熊野の地ということになります。そこが、『日本』と呼ばれていたので、国名を『日本国』としたと述べています。
 その東出雲にある熊野大社には、『日本火之出初之社(ひのもとひのでぞめのやしろ)』という名称が、今に伝えられています。その南には、日野とか日南といった地名も今に残されています。日(ひな)という地域が出雲にあったことが伺われます。ということは、日本(ひのもと)が、出雲の地に古くからあったということになります。今は、『日本(にほん)』と呼ばれていますが、当初は、その国名は『日本(ひのもと)』だったようです。
 さらに、日本国は、古くは小国だったが、倭国の地を併せたともあります。これは、宋書にあったことを意味しているようです。つまり、倭王武が、祖先は自ら甲冑を着て山野を駆け巡り国内から朝鮮半島まで制圧していったと上表文にありました。
 このように新生『日本(ひのもと)国』の紹介がされ、今は倭国などと蔑まれて呼ばれているが、これからは日本国と改めたからよろしくと唐王朝に伝えています。
 これは、ある意味、大陸の王朝からの独立宣言でもあります。大陸の王朝に対し、対等の姿勢を表明したということです。
 今、わが国はアメリカの属国状態とも言えるような状況にありますが、7世紀のこの列島で自主外交を貫こうとしていたのですから、立派という他はありません。
 しかし、中国にしてみれば、出雲王朝は、北方騎馬民族であるところの『大国』、あるいは『邪馬臺国』だと分かっているでしょうから、にわかには信用ならないと思ったようです。
 また、そういった報告を648年に行ったとなると、倭国を日本国と改めたのはその直近ということになります。国名を変えるということは、それのみならず大きな改革があったということになります。そのころあった大きな改革といえば、645年の『大化の改新』が相当します。
 それに、隋書に出てきた王の言葉に『大国維新の化』とありました。
 『大化の改新』とは、出雲王朝が『日本国』と改名した改革だった、つまり、『大化』という年号は、『大国』を大きく『変化』させたという意味だと考えられます。
 いずれにしても、中国から呼ばれていた倭国に変わって日本国と付けられたのは、7世紀中ごろだったとなります。また、中国から付けられたのではなく、この国で独自に考えて付けたということにもなります。そして、その時に考え出されたのではなく、古くから東出雲にあった国名でもありました。


長安三年、其大臣朝臣真人來貢方物、朝臣真人者、猶中國戸部尚書、冠進德冠、其頂為花、分而四散、身服紫袍、以帛為腰帶。真人好讀經史、解屬文、容止温雅。則天宴之於麟德殿、授司膳卿、放還本國。

 出雲王朝は、高らかに『日本(ひのもと)国』の誕生を、唐王朝に対して宣言しましたが、長安三年(703年)、そこの大臣の朝臣真人が方物を貢献に来たとあります。朝臣真人は、中国の戸部尚書のようで、冠は進德冠、その頂は花となし、分けて四方に散らし、身は紫の袍を服とし、白絹を以て腰帯としているとあります。さらに、真人は好く経史を読み、文章を解し、容姿は穏やかで優美だったとも述べています。
 武則天は、これを麟德殿に於
ける宴で司膳卿を授けて帰国させたとしています。先に行った使者と、この703年に朝貢した朝臣真人への対応や描き方には、大きな違いが見られます。
 信用できないし態度も横柄だといった648年の使者と違い、見た目も立派で理解力もすばらしいと、大絶賛されています。また、その容姿は、中国の戸部尚書のようだということは、中国様式の服装をしていたようです。
 この後も839年までに10回ほど朝貢した記載があります。そこには、特にトラブルがあったようなことは何も書かれていません。極めて良好な交流があったようです。今まであったような、中国のテリトリー外と見る視点は何処にも見られません。日本国は倭の別種なりという排他的な思いは消えてしまったのでしょうか。
 つまり、倭国が中国的な国になったということを意味していると考えられます。648年の朝貢の後に、何があったのでしょう。
 663年、白村江の戦いで倭国が大敗しています。そして、戦勝国であるところの唐に、倭国つまり出雲王朝が征服されたのです。長年、北方騎馬民族であるところの出雲王朝にこの列島が支配されていたことが、中国としては許せなかったのでしょう。倭奴国以来中国のテリトリーだと考えていたわけですから、その夷人による支配を一掃してしまったと考えられます。
 その唐王朝の傀儡とも言える新たな政権の誕生が、大宝元年(701)ということでしょう。
 唐の制度である律令制度、つまり大宝律令が施行され、親唐政権の誕生を唐に報告に行ったのが703年であれば、その待遇の違いが理解できます。
 ということで、3世紀頃からこの列島を支配し朝鮮半島までその勢力を拡げていた出雲王朝は、7世紀末、白村江の戦いを期に滅ぼされてしまったと見られます。そして、その後は唐の勢力が藤原氏としてこの列島を支配していくことになるのです。今まで築いてきていた出雲王朝による歴史的事象は、すべて抹消されたか、あるいは征服した彼らの歴史として簒奪されてしまったと考えられます。
 



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