謎を解くカギは中国の史書にあった 
資治通鑑

 『資治通鑑』(しじつがん)とは、北宋の司馬光が編纂した編年体の歴史書で、1084年に成立しています。
 収録範囲は、紀元前403年から、959年までの1362年間となっています。

詔起劉仁軌檢校帶方州刺史,將王文度之衆,便道發新羅兵以救仁願。仁軌喜曰:「天將富貴此翁矣!」於州司請唐暦及廟諱以行,曰:「吾欲掃平東夷,頒大唐正朔於海表!」仁軌御軍嚴整,轉鬭而前,所向皆下。百濟立兩柵於熊津江口,仁軌與新羅兵合撃,破之,殺溺死者萬餘人。

 660年3月に、百済と高句麗が新羅に侵攻し、新羅は唐に援軍を要請しています。それ以後、朝鮮半島は、戦乱状態に陥り、その8月、唐は、現在の韓国の中ほどにある広州のあたりに、彼らの拠点となる熊津都督府を置いています。
 661年になると、さらに戦闘は激しくなり、唐の将軍劉仁願は、百済府城を占拠していましたが、逆に百済の勢力に包囲されてしまいます。そこで、唐王朝は、劉仁軌を、検校帯方刺史として、仁願を救援するよう命じます。前年12月、兵糧船を転覆させた責任から処分を受けていた仁軌は、大いに奮起します。
 『天は、この翁を将に富貴にせんとしている!』
 さらに、『吾は東夷を掃平してやる、そして、大唐の正朔を海表へ頒布するのだ!』
 唐の暦を頒布するとは、唐王朝の暦で支配してやるという意味で、当時、還暦間近の仁軌ですが、並々ならぬ征服欲をあらわにしています。
 仁軌の軍は、向かうところ敵なしといった勢いで進軍し、百済軍は、万余人が戦死、あるいは溺死したとあります。
 しかし、新羅軍も出兵しますが、百済軍に破れ、双方、一進一退といった状況が続きます。


左驍衞將軍白州刺史沃沮道總管龐孝泰,與高麗戰於蛇水之上,軍敗,與其子十三人皆戰死。蘇定方圍平壤久不下,會大雪,解圍而還。

 蘇定方は、661年に平壌城を包囲しますが、苦戦し、翌662年2月には、大雪のために帰国しています。


仁願、仁軌等屯熊津城,上與之敕書,以「平壤軍回,一城不可獨固,宜拔就新羅。若金法敏藉卿留鎭,宜且停彼;若其不須,即宜泛海還也。」將士咸欲西歸。

 一方、仁願と仁軌も熊津城を占拠していましたが、百済軍に包囲され兵糧も補給できなくなっていました。
 そのため、662年7月、皇帝は新羅に戻るか、帰国せよと指示を出します。


今平壤之軍既還,熊津又拔,則百濟餘燼,不日更興,高麗逋寇,何時可滅!且今以一城之地居敵中央,苟或動足,即爲擒虜,縱入新羅,亦爲羈客,脫不如意,悔不可追。況福信凶悖殘虐,君臣猜離,行相屠戮;正宜堅守觀變,乘便取之,不可動也。」

 しかし、仁軌は、その皇帝の指示に従いませんでした。
 『高句麗を滅ぼすために先ず百済を攻めた。ところが、平壌の我が軍が帰国し、この熊津からも手を引いたらいつになったら高句麗を滅ぼせるのか。今、敵地の真只中にいる。下手に動いたら捕らえられる。機会をうかがい、不意をつけばチャンスが生まれる。動いてはいけない』と動きませんでした。
 そして、仁軌は、その作戦どおり、包囲していた百済軍の不意をつき、新羅への補給ルートを確保しています。一方、百済軍の内部には乱れが生じ、高句麗や倭国へ援軍を求めるに至っては、完全に攻勢から守勢に回っています。


十二月,戊申,詔以方討高麗、百濟

 そして、662年12月には、いよいよ高句麗、百済討伐の詔が発せられます。
 唐王朝は、倭国も含め、反抗する勢力の殲滅に乗り出します。
 一方、百済も、倭国に支援を要請し、朝鮮半島は、抜き差しならぬ情勢となってしまいました。


九月,戊午,熊津道行軍總管、右威衞將軍孫仁師等破百濟餘衆及倭兵於白江,拔其周留城。初,劉仁願、劉仁軌既克眞峴城,詔孫仁師將兵浮海助之。百濟王豐南引倭人以拒唐兵。仁師與仁願、仁軌合兵,勢大振。諸將以加林城水陸之衝,欲先攻之,仁軌曰:「加林險固,急攻則傷士卒,緩之則曠日持久。周留城,虜之巣穴,羣凶所聚,除惡務本,宜先攻之,若克周留,諸城自下。」於是仁師、仁願與新羅王法敏將陸軍以進,仁軌與別將杜爽、扶餘隆將水軍及糧船自熊津入白江,以會陸軍,同趣周留城。遇倭兵於白江口,四戰皆捷,焚其舟四百艘,煙炎灼天,海水皆赤。

 翌663年9月、熊津道行軍総管、右威衛将軍孫仁師等が、白江にて百済の余衆及び倭兵を破ったとあります。さらに、劉仁願、劉仁軌、孫仁師等は、威勢を大いに振るいます。諸将は、加林城が水陸の要衝なので、まずこれを攻めようとしますが、仁軌は「加林は険固だ。急攻したら兵士が傷つくし、ゆっくり攻めたら持久戦に持ち込まれる。周留城は虜の巣窟で群凶が集まっている。悪を除くには、元から絶つことだ。まずこれを攻めよう。周留に勝てば、諸城は自ら下る。」と言い、仁師、仁願と新羅王法敏は陸軍を率いて進みます。仁軌と別将杜爽、扶余隆は水軍及び糧船を率いて熊津から白江へ入り、陸軍と共に周留城へ向かいます。
 この時、倭兵と仁軌軍が、白江口にて遭遇します。仁軌軍は、四戦して全勝し、その舟四百艘を焼き、煙炎は天を焦がして海水は朱に染まったとあります。
 これが、『白村江の戦い』と言われています。この戦闘で、倭国軍は、数万人の兵士が命を落としています。当時の、この列島の人口を考えると、主力となる戦力が失われたことになります。


詔劉仁軌將兵鎭百濟,召孫仁帥、劉仁願還。百濟兵火之餘,比屋凋殘,僵尸滿野。仁軌始命瘞骸骨,籍戸口,理村聚,署官長,通道塗,立橋梁,補隄堰,復陂塘,課耕桑,賑貧乏,養孤老,立唐社稷,頒正朔及廟諱;百濟大悅,闔境各安其業。然後脩屯田,儲糗糧,訓士卒,以圖高麗。

 唐王朝は、高句麗を征服するため、まずは百済や倭国をその攻撃対象にしました。
 663年9月から10月にかけて、百済や倭国の唐王朝に反抗する勢力は、ことごとく殲滅されてしまいました。
 ここでは、その戦後処理といったことが描かれています。
 劉仁軌は、兵を率いて百済を鎮守し、孫仁師、劉仁願は帰国しています。
 戦乱により、百済は、家は焼け、屍は野に満ちていたとあります。この列島も同様の状況下にあったことでしょう。そして、仁軌は屍を埋葬させ、戸籍を作り、村へ人を集め、道路や橋、堤防を復旧させるなどの戦後処理を行っています。
 さしずめ、第2次大戦後のマッカーサーといったところのようです。
 先に仁軌が言っていましたが、正朔を頒布したとあるように、唐王朝の暦で支配しています。
 さらに、仁軌は、その後に屯田を修めて、兵糧を蓄え、士卒を訓練し、高麗征服に備えたとあるように、百済や倭国の地を高句麗征服のための拠点にしています。
 すべては、高句麗征服が目的だとしています。


劉仁願至京帥,上問之曰:「卿在海東,前後奏事,皆合機宜,復有文理。卿本武人,何能如是?」仁願曰:「此皆劉仁軌所爲,非臣所及也。」上悅,加仁軌六階,正除帶方州刺史,爲築第長安,厚賜其妻子,遣使齎璽書勞勉之。

 劉仁願は、先に帰国し、皇帝から『海東にあって、その戦略は時宜にかない、的確だった。どうしてそのようなことができたのか』と問われています。
 仁願は、『それは皆、劉仁軌のやったことです。私には、とても及ぶところではありません」と答えています。
 皇帝は悦び、仁軌へ六階を加え、帯方州の正式な刺史とし、その妻子を厚く賜ったとあります。
 また、使者を派遣して璽書を賜り、これを慰労して励ましてもいます。
 

十月,庚辰,檢校熊津都督劉仁軌上言:「臣伏覩所存戍兵,疲羸者多,勇健者少,衣服貧敝,唯思西歸,無心展効。臣問以『往在海西,見百姓人人應募,爭欲從軍,或請自辦衣糧,謂之「義征」,何爲今日士卒如此?』咸言:『今日官府與曩時不同,人心亦殊。曩時東西征役,身沒王事,並蒙敕使弔祭,追贈官爵,或以死者官爵回授之弟,凡渡遼海者,皆賜勳一轉。自顯慶五年以來,征人屢經渡海,官不記録,其死者亦無人誰何。州縣毎發百姓爲兵,其壯而富者,行錢參逐,皆亡匿得免;貧者身雖老弱,被發即行。

 劉仁軌は、664年10月に一時帰国し、皇帝に上言しています。
 『現地の守備兵は疲弊したり負傷した者が多く、勇健な兵は少く、衣服は貧しくくたびれ、ただ帰国することばかり考えており、戦意がありません』と報告しています。
 つまり、大きな戦闘は終わり、征服した後の占領支配を続けているということが分かります。
 そして、『かつて、百姓は、自ら募兵し、先を争うように従軍しているのを見たものだ。それなのに、今の兵士はどうしてこうなったのか?』と仁軌が尋ねると、ある兵士は『今までと官府が変わってしまいましたし、人心もまた異なります。かつての東西の征役で戦死しますと、厚遇され、凡そ遼海を渡る者は、皆、勲一轉を賜ったものです。ですが顕慶五年以来、征人は屡々海を渡るのに官は記録しません。戦死しても、誰が死んだのか聞かれもしません。州県が百姓を徴発するたびに、壮にして富める者は銭を渡して誤魔化し合い、皆、免れてしまい、貧しい者は老人でも連行されてしまうのです』と答えています。
 顕慶五年とは、西暦660年、武則天が皇帝を『天皇』という名称に変えたり新羅の進言で百済を攻撃するなど、武則天がその支配権力を強めていくちょうどその年に当たります。 


臣又問:『曩日士卒留鎭五年,尚得支濟,今爾等始經一年,何爲如此單露?』

 続いて劉仁軌は、その兵士に問いかけています。
 『往年の士卒は鎮に五年留まったが、今の汝等は赴任して一年しか経っていない。それなのに、なんでそんなにくたびれた有様なのだ?』とも問いかけています。
 つまり、664年10月の1年前にこの列島も征服されていることになります。
 さらに、仁軌は、重要なことを述べています。


陛下留兵海外,欲殄滅高麗。百濟、高麗,舊相黨援,倭人雖遠,亦共爲影響,若無鎭兵,還成一國。今既資戍守,又置屯田,所藉士卒同心同德,而衆有此議,何望成功!自非有所更張,厚加慰勞,明賞重罰以起士心,若止如今日以前處置,恐師衆疲老,立效無日。

 劉仁軌は、この列島のことについて次のように述べています。
 『陛下が兵を海外に留めているのは、高句麗を滅ぼすためです。百済と高句麗は昔からの同盟国で、倭人も遠方とはいえ共に影響し合っています。もしも守備兵を配置しなければ、ここは元の一国に戻ってしまいます』
 百済やこの列島に兵を留めているのは、高句麗征服のためだと言っています。そして、倭人も百済や高句麗と関係が深いので、引き続き守備兵を配置しなければ、元の『一国』に戻ってしまうと述べています。
 魏志倭人伝のところで、卑弥呼の女王国の国名が『邪馬壹国』とありました。この国名が、現在、わが国において『邪馬台国』と解釈されていますが、『壹』は、『一』を意味する文字でしかなく、そして、九州の卑弥呼の勢力である『一国』と、出雲の勢力、つまり『大国』と統一王朝を築くことで、国家的象徴である『天』が誕生したといったことは、すでに述べたところです。
 その統一王朝の実質的支配者だった出雲王朝『大国』を、唐王朝は殲滅し、国家的象徴の『天』をその支配下にしました。
 この仁軌は、そのことを述べているのです。唐の武将の口から、それを裏付ける証言がここで得られました。彼らは、この列島の実質的支配者であった『大国』、出雲の勢力は駆逐したが、そのままにしていたら、もう一方の『一国』に戻ってしまうだけだと、その認識を洩らしています。唐王朝は、この列島の歴史を改竄しましたが、はしなくも仁軌の口からその真実の歴史の一端が語られていました。
 やはり、卑弥呼のいた女王国の国名は、書き間違いでも、写し間違いでもなく『邪馬壹国』、『壹』、『一』でなければいけなかったのです。
 さらに、『今、既に戍守を造り屯田を置きました。』とも述べています。兵士たちも、この列島を長期間支配するとなると、生活していかなければなりません。そのためには、田畑で食料を生産しなければなりません。ですから、彼らは、ただ征服しただけでなく、この列島にいつまでも居座っていたということも述べてもいます。
 仁軌は、高句麗征服に向けて、士卒と心を一つにしなければ成功しないと鼓舞してもいます。これは、皇帝に向けての言葉です。仁軌の並々ならぬ、高句麗征服の気迫に満ち溢れた言葉です。
 この列島を征服した、この劉仁軌こそが、出雲の稲佐の浜で大国主命に剣を突き立てた武甕槌神に相当すると考えられます。つまり、朝鮮半島やこの列島も含めた東アジア征服を企らみ、西アジア
も支配下にし、大唐帝国を築いた武則天の忠実な兵士だったということなのでしょう。


上深納其言,遣右威衞將軍劉仁願將兵渡海以代舊鎭之兵,仍敕仁軌俱還。仁軌謂仁願曰:「國家懸軍海外,欲以經略高麗,其事非易。今收穫未畢,而軍吏與士卒一時代去,軍將又歸;夷人新服,衆心未安,必將生變。不如且留舊兵,漸令收穫,辦具資糧,節級遣還;軍將且留鎭撫,未可還也。」

 皇帝は、劉仁軌の進言を聞き入れて、守備兵を交代させています。そして、同時に、仁軌へは兵卒達と共に帰国するよう指示してもいます。
 しかし、仁軌は、「国家が海外へ派兵したのは、高麗経略の為だが、これは簡単には行かない。今、まだ収穫が終わっていないのに、軍吏と士卒が一度に交代し、軍将も去る。夷人は服従したばかりだし、人々の心は安んじていない。必ず変事が起こる。しばらくは旧兵を留め、収穫が終わり資財を揃えてから兵を返すべきだろう。軍をしばらく留めて鎮撫するべきだ。まだ帰れない。」と、述べています。
 唐王朝が、百済やこの列島に派兵したのは、高句麗攻略のためだと、改めてこの列島征服の思惑を述べています。
 そして、『夷人は服従したばかり』だとあります。
 隋書で、この列島の倭王が『我は夷人だ』と述べてもいましたが、この列島を支配していた出雲王朝の勢力を征服したが、まだ安心はできない、だから、武将や兵士がみな交代してはいけないと、仁軌は、引き続き、この列島の占領支配のために残っています。
 ここでも、仁軌は、皇帝の指示と異なる判断をしています。
 一武将が、そうたびたび自分の考えで行動することは、皇帝に反抗していることにもなりかねません。
 あるいは、皇帝ではなく、武則天の指示で動いていたということも考えられます。
 どちらにしても、劉仁軌は、この列島の占領支配、そして、高句麗征服に向けた拠点にするために、引き続きこの列島に残っています。
 北九州にある大宰府跡は、『都督府跡』ともされています。
 検校熊津都督だった劉仁軌は、そこをこの列島支配の拠点としていたのかもしれません。
 

八月,壬子,同盟于熊津城。劉仁軌以新羅、百濟、耽羅、倭國使者浮海西還,會祠泰山,

 665年8月、劉仁軌は、新羅、百済、耽羅、倭国の使者が海西に還ったので、泰山の祠で会談したとあります。


麟德二年、封泰山、仁軌領新羅及百濟、耽羅、四國酋長赴會、高宗甚悦、擢拜大司憲。

 こちらは、旧唐書の劉仁軌伝にある記述ですが、同じく麟徳2年(665)に、劉仁軌は、新羅、百済、耽羅、倭国の4国の酋長を連行し、高宗は、甚だ悦んだとあります。つまり、劉仁軌は、663年にこの列島を征服し、その占領下で唐王朝に反抗する勢力を一掃しました。そして、その平定もある程度完了したと見たのでしょうか、665年に周辺諸国の王を唐に連行しています。劉仁軌の、勝利の凱旋帰国といったところのようです。
 征服された倭王は、すでに王ではなく、酋長などとされてしまいました。その囚われた倭王は、671年に帰国したと日本書紀にもあるように、征服された出雲の勢力からの反抗封じでしょうか、しばらく唐に抑留されています。
 
 以上、資治通鑑にある、この列島が征服された経過が分かる部分を検証してみました。今のわが国には、唐王朝に征服されていたという歴史は、意図的に消されています。記紀認識で、わが国の歴史の真実は闇に葬られています。この列島に住む私達は、唐王朝の勢力によって消されたこの列島の歴史を取り戻さなければいけません。
 そのためには、記紀認識よって埋め尽くされている私たちの歴史認識を、根底から切り替えなければなりません。それは、人生観を変えるに等しいほどの作業です。しかし、それを乗り越えなければ、この列島の本当の歴史に到達することはできません。



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