1)疑問は深まるばかり 京都から、戻って以後、私は、万葉集に関わる疑問や謎の 解明に日々没頭することになりました。 第2首の国見の歌は、本当に奈良盆地で詠われたのだろう か。あるいは、人麻呂が、琵琶湖のほとりで、滅んだ近江大津 宮を偲んで詠ったとされているが、人麻呂と近江大津宮とどん な関係にあったのだろう。そして、人麻呂とはどんな人物だっ たのだろう。また、人麻呂が、明石で見た大和島とは、本当 に紀伊半島だったのだろうか。 私は、図書館や書店でそれらに関する本を探し、あるいは読 み、その解答を追い求めました。 しかし、なかなか、それに対する確かな認識を得ることはでき ません。 そこで、インターネットでも、何かそういった事が公開されてい ないかどうか調べました。 私と同様の疑問を持つ方もありましたが、やはり、それが解明されているようなサイトはありませんでした。 そうなりますと、とにかく現地に行き、自分の目でまず確かめるしかありません。 そして、その年の秋、一路近畿へと向かうことになりました。 2)近江大津宮は『移築していた?』 2004年11月12日、まずは、大津市立歴史博物館に立ち寄り、琵琶湖の歴史や近江大津宮などについて調べることにしました。 そして、学芸員の方から、『近江国』の国名の由来についてもお聞きすることができました。それは、万葉集にある『近江の海』、原文では『淡海之海』とありますが、それが琵琶湖を指していることからきているとのことでした。『近江国』の国名の起源は、万葉集にあったようです。 その博物館で、琵琶湖周辺の歴史をまとめて記されている『大津市史』を購入し、『大津宮跡地』へと向かいました。数箇所にその遺跡はありましたが、調査を終えてすでに埋め戻されていました。それらの場所は住宅街の中にあり、公園のように整備され、その調査を伝える写真や説明を書いたものが、表示されていました。 そして、その後、人麻呂が千鳥の鳴く声を聞きながら佇んだであろう琵琶湖の湖畔を眺めました。近くにお住まいの方にお話をお聞きしましたが、京都から鴨は飛来してくるが、千鳥を見ることはないと言われていました。 この調査で、大きくは、2つの点で疑問が出てきました。 まず、その『近江大津宮』があったとされる場所です。その地は、琵琶湖の西岸に位置しており、湖西側にはすぐに山があります。ですから、その大津宮があったとされるところは、あまり広い場所ではありません。仮にも都を構えるのですから、そこには、数々の建築物が立ち並ぶことになります。 それを考えますと、とても都を構えるほどの広さとは思えません。その周辺にそういった場所がなければ仕方のないことかとも思われますが、琵琶湖の東側には広大な平地が開けています。ことさら、その狭い場所に建設しようとしたことには疑問を抱かざるを得ませんでした。 2点目には、その大津宮の調査結果についてです。先ほどの大津市史に大津宮跡地の発掘状況についての詳細が記されていましたが、その発掘で分かったことの中に、大津宮は移築されたのではないかとありました。当時、大きな建築物が移築されることはよくあり、大津宮も同様の跡が見られたということなのです。 つまり、その建築物の柱の明らかに移設された痕跡が残されていたというのです。柱を斜めにして引き抜いたような跡が、残されていたとあります。その上、それらの調査で、焼けたような痕跡は、どこにもなかったということです。 これらの調査からは、近江大津宮と推定されている建築物は、炎上などしていなくて、移築されていたということが明らかになっています。そうなりますと、日本書紀で、天智天皇が近江大津宮を築き、それが天武天皇によって滅ぼされ、大津宮は炎上したという記述は、いったいどういうことなのかという次なる疑問が出てきました。 このたびの大津宮の現地調査で、人麻呂と大津宮とどういう関係があったのかといった疑問が解けるどころか、さらに新たな疑問が出てくることになってしまいました。
邪馬台国発見
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(2004,11,12 16:00 琵琶湖西岸にて)