私はこうして『邪馬台国』に到達した!

(19)歴史を改竄した唐王朝 

1)『邪馬台国の女王卑弥呼』登場
 唐王朝によって、この列島が占領征服されたことは、確認できました。では、出雲にあったこの列島の都『やまと』、すなわち『邪馬台国』の歴史は、どうして今にまで残されていないのでしょう。たとえ滅ぼされたとしても、大陸の歴史のように前王朝の歴史として残されてもいいのですが、そういった歴史は記紀などからは分かりません。
 その理由は、唐代の史書に残されていました。
 唐王朝は、それまで残されていたこの列島に関する記述とは全く異なる歴史を記していました。659年、李延寿が、『北史・南史』を編纂しています。この列島に関する記述には、北史では隋書を、南史では宋書を基本としています。参考にしているといったことではありません。そのままの文章を使い、切り貼りしているのです。全くのパクリです。現在だと、著作権の侵害で大問題となるでしょう。その上、内容を変えたり削ったり、あるいは書き加えたりといった『加工』も施していました。
 そして、そこに出来上がった歴史認識は、伊都国から周辺諸国の1つとして紹介されていた『邪馬壹国の女王卑弥呼』ではなく、まさしく、それらのすべての国を経由して行き着くところに『邪馬臺國の女王卑弥呼』がいたとされていました。
 なんと、『邪馬台国の女王卑弥呼』が、ここに登場しました。そして、その卑弥呼が魏に使者を送ったのは『景初2年(248)』ではなく、『景初3年(249)』だともありました。また、この列島は、民族的には、単一民族であるといった認識も述べられています。まさしく、今のわが国の歴史認識そのものが、ここには描かれていました。
 しかし、この相反する歴史認識は、両立し得ません。はたして、どちらが正しいのかを判断しなくてはならなくなりました。
 
2)侵略者の動機

 大陸に残されている史書の記述が、このようにその認識にあまりにも大きな違いがあることに驚くと同時に、いったいどういったことなのだろうかと頭を抱えてしまいました。しかし、どちらが正しいのか考えるしかありません。そして、二つのことから、その解答にたどり着くことができました。
 まず、一つ目には、彼らの記述の中にその解答へのカギがありました。南史では、出雲の地にあった都『やまと』が消され、そこには『文身国』なる国が描かれていました。その国の国民は、豊かではあるが、お客があっても食べ物を出してもてなすこともないといった極めて恣意的な表現がされています。また、その国王は、金銀財宝にまみれていて、家の周辺には水銀があふれ、その上を雨が流れているなどと書かれています。放蕩三昧の国王だと言っています。
 この南史が記されたのは、659年ですが、それは、この列島が征服される4年前のことです。 つまり、これから征服しようとする『敵国』ですから、悪者に描こうとしているのです。その上、この列島からは、水銀が豊富に産出されていましたから、その水銀鉱脈を手に入れたかったという侵略者の思惑がここに残されていました。
 先に、唐王朝がこの列島を制圧した目的は、高句麗対策だと劉仁軌は述べていましたが、それは兵士に向けた表向きの大義名分で、本当の理由は、この列島の水銀にあったと考えられます。
 唐王朝は、668年に高句麗を滅ぼした後、676年には、朝鮮半島から兵を引き上げています。もし、本当に、高句麗対策であったのなら、この列島からも手を引いているはずです。今さら、南海の孤島にいつまでも居座る必要はありません。兵も、戻りたくてたまらないでしょう。しかし、彼らが、引き続き、この列島に残って支配を継続した理由は、この列島に彼らの欲望を満たす何かがあったということになります。
 当時、水銀は、朱色の原料であったり、あるいは金メッキには欠かせない貴重な鉱物資源でした。また、道教にあっては、外丹とも言われ、不老長寿の秘薬とも思われていたなど、今で言えば石油にも匹敵します。つまり、アメリカが、中東の支配にこだわるようなものです。ですから、彼らは、水銀鉱脈のあった丹波と伊勢の中間である京都の地に拠点「平安京」を構えたと考えられます。
 これらのことから、唐代の歴史認識は、意図的に、唐王朝にとって都合良く変えられたものではないかと考えました。
 もう1つは、その唐代の歴史認識と今のわが国の歴史認識が共通するということです。すなわち、その手法も含めて、同じ勢力だと思わざるを得ない所が数々見受けられました。ほんの数十年前の戦争の実態を偽ろうとしたり、『新しい歴史教科書』だなどと、その侵略戦争を合理化し、自らに都合よく歴史を描こうとするところは、全く同質だと思えます。そういったことから、唐王朝の勢力も、今のわが国の支配勢力も、同じ『改竄勢力』だという結論に至りました。
 したがって、唐代より前の史書の記述こそが、正しく歴史を残しているという判断に至りました。
 
3)すべてが消された『新唐書』
 ここまでの、歴史認識は、唐王朝の勢力が、まだ大陸からの視点で描いた歴史です。その唐王朝も、907年に滅ぼされ、この列島に王朝貴族が流れ着きます。この列島は、大陸に王朝が誕生して以来、蔑視されてきています。そんな忌まわしい列島に、王朝貴族が住まいすることになるのですから、彼らには絶えられるはずもありません。
 そこで、過去の蔑視されていた歴史をことごとく消し去り、天にも持ち上げるほどの高貴な列島に仕立て上げました。そういった、さらに『新しい歴史』が、『新唐書』に描かれています。そこでは、出雲王朝も、邪馬台国も、卑弥呼も登場しません。この列島を支配してきたのは、彼らの盟主『武則天』の命名した『天皇』のみだという『高貴』な歴史が、つくり上げられました。
 
4)今にも続く改竄された歴史
 こういった唐代に改竄された歴史認識、その後この列島にやってきた唐王朝の勢力によってさらに改竄された歴史認識、その都度その都度、自らに都合よく改竄した歴史認識によって、今のわが国の歴史は作られてきています。ですから、矛盾だらけの歴史になってしまっているのです。そして、彼らが、わが国の子どもたちに教科書で伝える歴史は、彼らがこの列島を征服した後の700年代からで、それ以前の歴史は消し去っています。
 これらの歴史認識を検証することにより、唐王朝にこの列島が占領・征服されていたことは、遠い過去の出来事にとどまる事ではなく、その支配は今にもつながっているということも見えてきました。それによって、明治維新と言われるものの本質、そして、その後の一連の大陸侵略の意味も理解できました。
 さらに、今、まさに再び大陸へ侵略しようとしているわが国の支配勢力の思惑も、見えてきたのです。 




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