邪馬台国検証


 (3) 後漢書に登場する「邪馬台国」
 魏志倭人伝には、「邪馬台(臺)国」という記述はどこにも登場しませんでした。そして、「邪馬台国の女王卑弥呼」という認識もありませんでした。では、邪馬台国はどこに出てくるのでしょう。それは、南朝「宋」の時代、范曄によって記された「後漢書」に登場しています。後漢書は、後漢の滅亡後、200年ほど経過した432年に成立しており、魏志倭人伝が3世紀後半に残されていますから、それよりも150年ほど後に記されました。

倭在韓東南大海中、依山嶋爲居、凡百餘國。自武帝滅朝鮮、使驛通於漢者三十許國、國皆稱王、世世傳統。其大倭王居邪馬臺國。

 その後漢書には、「大倭王居邪馬臺國」とあります。この列島の「大倭王」が、「邪馬臺国」に居ると明確に記載されていました。この列島には、間違いなく「邪馬台(臺)国」は存在し、そこには、大倭王が君臨していました。
 では、邪馬台国には大倭王がいたとありますが、それが卑弥呼に相当するのでしょうか。
 後漢書では、その卑弥呼についても触れています。

桓、靈間、倭國大亂、更相攻伐、歴年無主。有一女子名曰卑彌呼

 後漢の桓、靈間といいますと、桓帝は、146年から167年、靈帝は、168年から189年の間となります。つまり、およそ西暦150年から190年頃まで、この列島全域で、およそ40年間にもわたって戦乱状態が続いた後、卑弥呼が女王として『共立』されたとあります。ですから、卑弥呼が、女王としてその地位に就いたのは、およそ西暦190年頃だとなります。

女王國東度海千餘里至拘奴國

 そして、その女王国から東に海を渡って行くと「拘奴國」があるとも述べています。
 これについては、魏志倭人伝にも同様の記述があります。

女王國東渡海千餘里、復有國

 この魏志倭人伝の記述を後漢書においても確認しているということなのかもしれません。
 従って、この後漢書にも、「邪馬台国の女王卑弥呼」という認識はどこにもありません。それどころか、この列島には、大倭王が邪馬台(臺)国に君臨しており、それとは別に女王国があったと記しています。それも海を隔てて東に拘奴国があるとまで明記されています。
 つまり、この後漢書においては、魏志倭人伝以上に、大倭王の君臨する邪馬台(臺)国と、卑弥呼の居た女王国を区別しています。
 従って、卑弥呼は、邪馬台(臺)国の女王ではなかった。これが、後漢書の記載から明らかになったことです。 

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