邪馬台国検証


(4) 宋書に描かれた邪馬台国の大倭王・・・倭の5王
 魏志倭人伝には、通説で言われるような「邪馬台国の女王」という記述はどこにも登場しませんでした。そして、それは後漢書でも確認されました。さらに、後漢書では、卑弥呼の女王国「邪馬壹国」とは別の国として「邪馬台(臺)国」があり、そこには大倭王が君臨していたともありました。
 後漢書では、その大倭王が「武帝」として紹介されていましたが、宋書ではさらにその大倭王について詳しく記載されています。
 宋書は、南朝「斉」の沈約が、5世紀末から6世紀にかけて作成しています。

讃死、弟珍立、遣使貢獻。自稱使持節、都督、倭、百濟、新羅、任那、秦韓、慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭國王。表求除正。詔除安東將軍、倭國王。

 その宋書では、所謂「倭の5王」と言われる『讃、珍、済、興、武』について書かれています.。そこでは、『使持節、都督、倭、百濟、新羅、任那、秦韓、慕韓六國 諸軍事、安東大將軍、倭國王』と称していたとあります。
 つまり、倭王の武が、朝鮮半島を制していたと後漢書に記されていたことと一致し、倭の5王とは、邪馬台(臺)国の大倭王だということにもなります。

順帝昇明二年、遣使上表曰:「封國偏遠、作藩于外。自昔祖禰躬[偏手旁右環]甲冑、跋渉山川、不遑寧處。東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國

 また、大倭王の武帝は、昇明2年(478)、宋の順帝に上表文を送っています。
 それによると、『倭国は中国から遠く、わが祖先は、自ら甲冑を着て山野を駆け巡り、東へ西へと諸国を征し、また海を渡って海北の国もその支配下にしてきた』と述べています。
 つまり、この列島で、3世紀から4世紀に大きな力を持つ勢力が出てきたのは、この倭の5王の勢力だったのです。その上表文では、さらに、高句麗を討つ様に奨めています。大倭王が、朝鮮半島まで攻め入ったものの、高句麗と対峙していたようです。これは、好太王碑に記されている記述とも合致します。
 少しずつですが、邪馬台国の実像がつかめてきたようです。
 

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