(2) 魏志倭人伝に「邪馬台国に女王卑弥呼が居た」という記述はない また、ほとんどの皆さんが、その邪馬台国には卑弥呼が居たと思われていることでしょう。 それに疑問を抱く人はまず居ないというほど、定着した認識となっています。その根拠となっているのが、魏志倭人伝と言われている史書にあります。 ところが、その魏志倭人伝には、邪馬台国も邪馬台国の女王卑弥呼という概念も登場しません。 女王卑弥呼は確かに登場するのですが、その卑弥呼が邪馬台国に存在していたという認識は、その魏志倭人伝にはありません。 では、どうして、「邪馬台国の女王卑弥呼」という概念が、ここまで浸透しているのでしょう。ほとんど、我が国の古代史にあっては、当然の前提というほどになってもいます。魏志倭人伝のどこをどう見ても、「邪馬台国の女王卑弥呼」といった記述は存在せず、いくつかの「見なし」によって、そういった認識が作り上げられています。 西晋の陳寿が、3世紀末に「三国志」を残し、その中の魏書に登場する東夷伝の倭人条が、魏志 倭人伝と呼ばれています。その陳寿が、国名を間違えたとされています。では、明らかにその間違い が確認されているかと言えばそうではありません。おそらくそういうことなんだろうという推測でしかあ りません。 その魏志倭人伝では、「邪馬壹国」の女王卑弥呼という記述になっています。その「壹」という文字は、数字の「一」を意味する文字です。その「一」は、二や、三、十などに容易に書き換えることができます。だから、そういう書き換えができないよう正確を期すために、「壹」や「壱」が使われます。それは、今でも領収書や神社の境内における寄付金などの表示にもよく使われています。 それが、今の我が国では、陳寿が「臺」と本来書くところを「壹」と書き間違えたとされています。つまり、「邪馬臺国」と書くべきところを「邪馬壹国」と書き間違えたというのです。 では、本来書くべきだったとされている「臺」という文字は、何を意味するどういう文字なのでしょう。それは、魏志倭人伝にも登場しています。卑弥呼が亡くなり、次期女王の「壹與」が、政情が不安定だったので魏の使者を無事に魏へ送るために使者を同行させます。その使者が皇帝の居する「臺」に詣でるという記述があります。つまり、魏国の皇帝に会って「邪馬壹国」を支援していただいたことへの御礼を述べています。 その「臺」という文字は、皇帝の居する今で言う皇居を意味する文字なのです。そういった国名や皇帝の居する場所を意味する文字が、書き間違えられたとされています。 魏志倭人伝の中では、「壹與」、あるいは「臺」に詣でるとあるように、特に「壹」と「臺」の使い方に何ら間違いはありません。その国名「邪馬壹国」だけが、本来「邪馬臺国」と書くべきなのに「邪馬壹国」と書き間違えられたとされています。魏志倭人伝の原本は残されていません。数々の写本が残されていますが、その全てが「邪馬壹国」と写し間違えられたとされています。その根拠は、字が似ているからだとされています。 では、例えば、我が国の文部科学省の我が国の歴史をまとめた文書で、「太平洋」という表現を「犬平洋」などと間違えるでしょうか。確かに「犬」と「太」は似ていますが、意味は全く異なります。国家的な重要な文書で、そんな間違いをするのでしょうか。今の我が国の「邪馬台国の女王卑弥呼」という概念は、「おそらく書き間違ったのだろう」、「おそらく写し間違ったのだろう」という憶測によってでしか成立し得ないのです。陳寿はもう、遠い過去の人です。もし、その人が書き間違いをしていなければ、とんでもない冤罪を押し付けていることになってしまいます。まさしく、「死人に口無し」です。 このように、「三国志魏書東夷伝倭人条」には、「邪馬臺国」という記述も、「邪馬台国の女王卑弥呼」を意味する記述も登場してなどいません。 どういうことなのでしょう。本当に「邪馬台(臺)国」は、存在していたのでしょうか。また、邪馬台国には「卑弥呼」は存在していたのでしょうか。 |
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