邪馬台国検証

邪馬台国発見
 (18) 天皇を誕生させた武則天
 隋を滅ぼして唐を建国した李淵は、『天子になるであろう』という道教からの予言が、その行動の根底にあったとも言われています。したがって、唐王朝初代皇帝高祖となった李淵は、主要な3宗教に、『道教・儒教・仏教』という順位を付けて道教を推奨しました。
 それに対し、仏教徒は、太子李建成を支持して巻き返しを図ろうとするのですが、道教に推される李世民が李建成を廃し、第2代皇帝となります。
 この道教を重視する動きは、第3代皇帝高宗の時代になるとさらに強まり、高宗は老子を道教の祖『聖祖大道玄元皇帝』として崇めます。というのも、『史記』に、老子の名前が『李耳(りじ)』と伝えられていたので、唐王朝の李氏は、同姓の老子を自らの祖先としたからでもあります。それは、高宗の名前が『李治(りじ)』というところにも現れているようです。
 老子は、上巻『道経』、下巻『徳経』を残しており、李治は、それらを『道徳経』として推奨しています。また、当時の道教にあっては、錬丹術、あるいは外丹とも言われますが、丹、つまり、水銀を服用することで不老不死の仙人になることができると考えられていました。辰砂などから取り出した硫化水銀を原料とする仙丹を、皇帝たちは不老不死の妙薬だとして求めていました。
 李治高宗が病弱だったというのは、あるいは水銀中毒の可能性もありそうです。
 そして、高宗の皇后となる武則天も、李世民が亡くなった時に女性道士となり、李治も武則天も、道教に大きく関わっています。
 その道教では、天の中心を為す北極を『北辰』と呼び、宇宙の中心だとしていました。それが、神格化され、『天皇大帝』とも呼ばれていたのです。こういった考え方を基にして、660年、武則天は皇帝を『天皇』とし、自らも『天后』と改名しています。
 つまり、天皇の『ルーツ』は、武則天、そして道教にありました。
 このように、道教に深く関わった李治と武則天でしたが、その錬丹術の中心である水銀は、不老不死の仙薬どころか、逆に水銀中毒を起こす猛毒です。李治が亡くなってそれを悟ったからでしょうか、武則天は、皇帝に就くと一転して仏教を推奨するようになります。
 自らを弥勒菩薩の生まれ変わりだと称して、仏教を道教の上に置きます。この武則天の時期に、仏教は大きく勢力をひろげます。しかし、705年武則天の退位とともに、再び道教が上位とされ、天皇も皇帝に戻されてしまいます。ですから、中国皇帝制度にあって、天皇を名乗ったのは李治ただ一人だけです。
 そして、660年以降、朝鮮半島は戦乱状態になり、唐王朝は、東アジア制圧に動き出します。
 この東アジア制圧の思惑を秘めた状況にあって、唐王朝は、新たな史書を作成しています。
 

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