邪馬台国検証

 (19) 邪馬壹国が邪馬台(臺)国にされる・・・梁書
 貞観3年(629年)に、姚思廉によって梁書が作成されました。
 そこに、描かれている歴史は、今まで検証してきた歴史とは全く異なるものとなっています。

倭者、自云太伯之後。俗皆文身。去帶方萬二千餘里

 まず倭人は、呉の太伯の末裔だと自ら言っているとあります。倭人が呉の末裔であるといったことは今までの史書には出てきませんでした。そして、「文身」、つまり、体に刺青をしているとあります。これは、魏志倭人伝にも出てきましたが、南方の民族が海に潜るときサメなどに襲われないように、身を守るためにしているとありました。そして、「帯方万2千余里」ともあります。これも魏志倭人伝にあった卑弥呼の女王国のあった西都原の位置を示しています。

從帶方至倭、循海水行、歴韓國、乍東乍南、七千餘里始度一海。海闊千餘里、名瀚海、至一支國。又度一海千餘里、名未盧國。又東南陸行五百里、至伊都國。又東南行百里、至奴國。又東行百里、至不彌國。又南水行二十日、至投馬國。又南水行十日、陸行一月日、至邪馬臺國、即倭王所居。
 
 魏書にあっては、『到伊都国』とあったように、当時のいわゆる『大使館』といった、帯方郡の使者が常駐する『伊都国』へ到る行程でした。『伊都国』までの国の「至」は「又」の付いた通過点でした。そして、その『伊都国』から、周辺諸国や女王国が紹介されていました。ですから、周辺諸国を紹介する部分には、『又』は記載されていませんでした。
 ところが、この梁書では、『到伊都国』とあったものが、『至伊都国』とされ、その『伊都国』からの紹介だった記述が、それぞれに皆『又』が記載されています。
 つまり、周辺諸国の紹介ではなく、その諸国を経て女王国へ行く道順にされています。
 さらに、魏書では、女王国の国名が『邪馬壹国』とあったのに、『邪馬臺國』となっているのです。その上、そこは、女王国のはずなのですが、倭王の居する国とされています。魏書においては、女王国とあり、決して倭王のいる『邪馬臺國』ではありませんでした。それは、後漢書でも、『女王国』と『邪馬臺國』とは、異なる国として描かれていました。つまり、倭王と女王という2系統の勢力を描いていました。
 どういうことなんでしょう。よく言われるように、『壹と臺』の書き間違いなのでしょうか。しかし、その次に倭王の居する所とありますから、間違いなく王のいる『臺』と認識しています。
 今までの史書には、女王国を『臺』とする考え方はありませんでした。
 女王国は、あくまで女王国でした。
 ここでは、2つのことが考えられます。
 一つは、過去の史書の不勉強による勘違い。これは、今でもよく見かけますが、魏志倭人伝の記述を詳細にわたって分析ができていない為に、おそらくこうだろうといった罪の無い誤解から生じている場合です。ですから、それらの紹介されている国々をすべて経てしまいますと、とんでもない場所へ到達することになってしまいます。
 本来、邪馬台国ではない『邪馬壹国』を『邪馬台(臺)國』だと見なし、その上、全く異なる道順に描かれているのですから、邪馬台国の本来の位置からは途方もなくかけ離れたものになっています。
 もう一つは、明確な意思で以って『歴史の改竄』をしたということです。
 隋も唐も、鮮卑族の流れにあり、東アジア制圧の思惑を持っていました。そういった他民族支配という思考にあって、意図的に歴史を創作したという可能性もあります。これから、征服しようとする対象の国ですから、そういった思惑で、その対象の国を描こうとします。 

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