(11) 伊都国から周辺諸国を紹介
次に、『伊都国』に常駐する使者は、周辺諸国の紹介をしています。
まず、近いところから、『奴国』が東南に百里、およそ5kmの位置にあったとしています。博多から甘木に通じる道は、そのまま東南の方向に伸びています。そして、その道を甘木から、およそ5km行きますと、そこは『旧朝倉町』です。その地に『奴国』があったと考えられます。
次に『伊都国』から東に百里、およそ5kmの位置に『不彌國』があったとしています。甘木から東に5kmとしますと、佐田川沿い『三奈木』のあたりに『不彌國』があったと考えられます。
次に『伊都国』から南に水行二十日、つまり海を二十日行くと『投馬国』があるとしています。ということは、陸を経ては行けないということです。甘木にあった『伊都国』から、先ほどの港である『末盧國』、つまり博多から船に乗り、長崎と五島列島の間を通り、南に二十日間かかって行けるような島だということになります。それは、九州ではありません。そのまま南に下ると、そこには『奄美大島』があり、そして、『沖縄』へと連なります。
この『投馬国』の地も、いろいろと解釈されていますが、九州や本州だと陸地を経て行けます。しかし、陸を経て行くことができず、『水行』ということのみ記されているということは、海を航行して行くしか方法がないということを意味します。また、その方角が『南』だとしています。本州の方角だと、『東』になります。
よって、それらを総合しますと、『投馬国』は『奄美大島』を経た『沖縄』だと考えられます。その地には「5万余戸」があったと描かれています。「沖縄」とは、明治以降の呼び名で、それまでは、「琉球国」でした。その「琉球国」という国名も14世紀以降です。隋書に「琉球国」が登場しますが、それは、今の宮古島に存在していたとあります。ですから、三国志の時代には、「沖縄」は、「投馬国」と呼ばれていたと考えられます。
数ある諸説には、魏志倭人伝にある方角や距離は、『間違っている』とか、『勘違い』だとか、中には『どんぶり勘定』だといったことも述べられています。しかし、よくよく検証しますと、当時の測量技術を最大限に駆使して、その方角や距離が記されていると言えます。
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