大陸に王朝が誕生して以来、この列島に住む人々は、『倭人』と卑下されてきました。今は、言われなくなりましたが、わが国においても、近年まで南方の少数民族を『土人』だといった蔑称で呼ぶことがありました。それと全く同じで、大陸から見て、南方に住む小さい人間だという意味で『倭人』と呼んでいました。
そして、この列島にあった国々が統一されますと、『倭国』と呼ばれるようになりました。さらに、大陸の王朝も統一されて隋が誕生すると、そういった卑下するだけでなく、この列島は、まるで隋のテリトリーかのごとくの扱いをするようになります。アメリカが、カリブ海をまるで自らの庭のように考えているようなものでしょうか。
600年、その隋に出雲王朝は、使者を送ります。その使者が、出雲王朝の国家体制について紹介しています。
『倭王は、天を以って兄と為し、日を以って弟と為す』
つまり、国家的象徴と実質的支配者という関係を述べています。
そういったこの列島の国家体制について、隋の皇帝は、『此太無義理』と答え、訓令で以って改めさせたとあります。この列島の国家体制が、気に入らないから改めよと命令しているのです。隋は、『倭国』を、まるで属国かのごとくの扱いをしています。
それに対し、出雲王朝は、607年に、第2代皇帝煬帝の即位にあたり、再び使者を送っています。その使者が携えていった国書には、『日出ずる處の天子、書を日没する處の天子に致す。恙無しや云云』とありました。出雲王朝は、この列島を属国扱いする隋あるいは煬帝に対し、『あなたが天子であるなら私も天子である』と対等の立場を表明したのです。
今のわが国の政府が、何をされてもアメリカに抗議ひとつできない卑屈な外交をしているのに比べたら天と地の開きがあります。それを、1400年も前にそういった外交姿勢を貫いているのですから、驚愕します。
しかし、大陸の王朝としたら、天子は隋の皇帝ただ一人だと当然ながら考えています。ましてや、『倭国』といった蔑視している南海の孤島に『天子』を名乗る『倭王』がいるなど許せるはずもありません。
隋王朝は、その国書を見て激怒し、出雲王朝との国交は断絶します。ところが、その隋はほどなくして滅び、618年に唐が建国されます。しかし、隋も唐も同じ鮮卑族による貴族政治ですから、いわゆる『政権交代』といったところで、単なる王朝の担い手が替わったに過ぎません。
その唐王朝に対し、出雲王朝は、631年に様子見といったところでしょうか、第2代皇帝太宗李世民の時代に使者を送ります。それに対し、太宗は、遠いこの列島からの朝貢は不要だといった使者をわざわざ送ってきます。
ところが、その使者と出雲王朝との間で『礼』を争って、その使者は『朝命』を伝えることなく帰国しています。『朝命』ですから、あくまで唐王朝は、この列島を属国扱いしています。
その扱いに対し、出雲王朝は、『礼儀』に反すると、その『朝命』を拒否したということなのでしょう。そういった、隋・唐王朝による属国的扱い、そして、『倭国』などと蔑称で呼ばれていることに、出雲王朝は断固とした姿勢を貫きます。
本当に、米国内の軍事基地建設にまで税金を湯水のごとく注ぎ込もうとしている今のわが国の政府に教えてあげたいと思わずにはいられません。しかし、サービス精神だけで多額の税金を投入するほど、お人よしではないでしょう。そこには、米軍の軍事力を大陸侵略のために利用しようとする思惑や見返りが秘められているようでもあります。
そして、出雲王朝は、歴史上かつてなかった大きな改革を行い、648年、それを唐王朝に伝えるために使者を送っています。その大きな改革とは、この列島が『倭国』と呼ばれていた国名を、『日本(ひのもと)国』と改めたことでした。
国名を変えた動機は、『倭国』という国名は、大陸の王朝からの蔑称で『不雅』、よろしくないからということです。また、その『日本』の根拠は、東出雲の地、つまりこの列島の都であり中心地であった『日』の地名を国名としたとあります。スサノオ尊の奉られる熊野大社には、『日本火之出初之社(ひのもとひのでぞめのやしろ)』という別名が残されています。
このような経過の中で、わが国の国名『日本国』は誕生しています。
つまり、大陸の王朝からの蔑視や属国扱いとの戦いの中で『日本国』という国名は誕生しています。 これこそが、645年『大化の改新』の真実です。大国を大きく変化させたという意味で『大化』という年号が付けられたのです。そういった崇高な歴史を、唐王朝は徹底して抹殺し、『大化の改新』を、血生臭い政治的クーデターに貶めてしまいました。
そういった歴史の改竄は、過去のことではなく、今現在も続いているのです。唐王朝は、大陸にいる時から、この列島の歴史を改竄していましたが、この列島を征服した後、907年、唐王朝が滅ぼされる頃、この列島に王朝貴族が流れ着き、さらにこの列島の歴史は、改竄されてしまいました。
その改竄された歴史が、『新唐書』に反映しています。その中で、日の出る所に近いので日本国という国名にしたなどとされています。新唐書は、1060年、北宋の欧陽修らによって作成されましたが、錯誤もあり資料的価値は旧唐書に及ばないとされ、同時期に作成された『資治通鑑』を作成した司馬光は、新唐書は一切使わず、旧唐書を資料としています。
ところが、今のわが国では、この新唐書にある歴史認識が基本となっています。改竄の上にさらに改竄を重ねた歴史が、わが国の歴史となっています。
早くそのことに気づかないと、いつまでも、わが国の歴史は闇の中をさまよったままになります。
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邪馬台国発見
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