西暦190年頃、『倭国大乱』を征した倭王であるところのスサノオ尊は、卑弥呼(日皇子)を女王とし、また、その勢力を『一国』として奉り、自らはその下に位置する『大国』という国名にしました。つまり、『一』と『大』の統一で国家的象徴の『天』が構成されるという概念がそこに生まれました。国家的象徴と実質的支配者という、今にもつながる国家形態がそこに誕生したのです。
その後、出雲王朝・大国は、この列島のみならず、朝鮮半島をもその支配下にしています。そういった歴史が、昇明2年(478)、出雲王朝の倭王武から南朝宋の順帝へ送られた上表文に残されていました。
それ以後、しばらくは、大陸の王朝との交流は残されていません。
581年、隋の楊堅は、西晋が滅んで以来、300年ぶりに大陸に統一王朝を築きます。その隋に対し、出雲王朝は、600年に使者を送っています。隋とは、初対面になるので、出雲王朝の自己紹介をしています。
その中で、まず『倭王は、天を以って兄と為し、日を以って弟と為す』と、国の基本的な構成について述べています。つまり、国家的象徴の『天』を兄とし、実質的支配者の『日』を弟と見なしています。スサノオ尊以来、その基本的なあり方は、脈々と受け継がれていたようです。
そして、その使者は、出雲王朝の官位についても触れています。『徳・仁・義・礼・智・信』にそれぞれ、大と小があり、これが『官位12階』と言われているものです。周辺諸国でも、官位が、高句麗13階、新羅17階、百済16階などと定められていたようです。
このように、600年の出雲王朝の使者が、この列島の国家形態を紹介する中で述べている官位12階(冠位12階)ですが、今のわが国の歴史にあっては、聖徳太子が、その600年の『第1回遣隋使』の教訓から、603年に導入したとされています。
これも全くあり得ない歴史が創作されています。
どうして、600年に隋に報告している官位が、603年に導入されたことになるのでしょう。さらに、その時に述べられている『倭王』は、推古天皇だとされています。その『倭王』は、大王(おおきみ)と呼ばれていて、妻があると紹介されてもいます。推古天皇は、女性の天皇となっていますが、女性の天皇に妻があるなどといったことに矛盾は感じないのでしょうか。
『そんなの関係ねえよ』
とにかく、自らの創作した歴史こそが、絶対的な歴史ということなのかもしれません。
そもそも、当時は、出雲王朝の支配下にあり、天皇制などこの列島のどこにも存在していません。聖徳太子も創作された架空の人物に過ぎません。
すべては、出雲王朝による支配を消し去るために、その歴史が、唐王朝によってこの列島が占領支配された後に持ち込まれた天皇制の歴史として簒奪されたことに起因するものです。
そのために、矛盾だらけの歴史になっているのです。
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邪馬台国発見
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