2、
次の日、父と由美は大津へ向かった。
「さて、どういうコースにしようか」
「まず歴史博物館へ行って、その後、近江大津宮跡から琵琶湖をまわればちょうどいいコースよ」
由美が地図を見ながら答えた。
「そうしようか」
しばらく走り、二人は大津市歴史博物館に着いた。
常設展示場には、誕生から移り変わっていく琵琶湖の姿が描かれており、他にも年代を追っていろいろな資料が展示してあった。
「でも、万葉集で琵琶湖は詠われていないのかしら」
「大津宮についての資料も、ぜひ欲しいんだよなあ」
父は、一通り見ると受付の女性に尋ねた。
「そういう内容でしたら大津市史に詳しく書いてありますよ」
二人は売店へ行き、見本に並べてある大津市史を見た。
「結構いい値段するのね」
「これだけの内容だから、高いとか安いとか一概には言えないよ」
「どうする?」
「そうだなあ。貴重な資料だから、思い切って買ってしまおうか」
「いよっ、お父さん太っ腹!」
父が大津市史を購入している間、由美は近くのソファーに腰掛けて待った。
『そうだ、万葉集の歌が知りたいな』
そう思って周囲を見回していると、父が購入を終えてやってきた。
「お待たせ。さあ行こうか」
「お父さん、ちょっと待って」
由美が受付の女性に尋ねると、パソコンの置いてある部屋に案内された。
「万葉集の検索は、どういったキーワードでされますか。原文でしたら志賀、近江などがありますが」
「どうしようかな。では、志賀でお願いします」
「分かりました」
すぐに検索された歌が表示された。
「九首ほどあります。ただし、滋賀県以外の歌も含まれていますがどうされますか」
「よく分からないから全部お願いします」
由美は、プリントアウトされた資料の代金を支払って父と玄関を出た。
「それは、何の資料なんだ」
「万葉集の滋賀県にかかわる歌を調べてもらったのよ。他にもありそうだったけど、とりあえずは志賀で検索してもらったの」
「なるほど、それはいい資料だよ」
二人は、それぞれ資料が手に入ったので、大津宮跡地に向かった。
「ここを出て左ね」
地図を見ながら走り始めたが、しばらく行くと道幅が狭くなってきた。
「住宅街の中に入ってきたけど、この道でいいのかい」
「地図ではそうなっているのよ。あっ、そこに近江大津宮跡地って表示が見えたわ」
「本当だ」
近くに車を置いて二人が行くと、そこは住宅街によくある公園のようになっていた。
「発掘時の写真や説明が掲示してあるけれど、あまり遺跡には見えないわね」
「気づかなければ普通の公園だよ」
近くにもう一か所跡地があるので行ってみたが、やはり同じようになっていた。
「近江大津宮遺跡と言っても、これではよく分からないなあ」
二人は車に戻り、いよいよ琵琶湖へと向かった。
しばらく走って二人が着いたのは、近江八景で有名な『唐崎の夜雨』と言われている名所だった。
駐車場に車を置き、眺めの良さそうな所に向かった。
「わあ、とっても綺麗!」
そこには手入れの行き届いた大きな松があり、琵琶湖が一望できた。
父は、早速撮影していた。
「これはすばらしい眺めだよ」
「あっ、あれはミシガンじゃないかしら」
ちょうど、琵琶湖周航の船も見えた。
二人は、湖畔に置いてあるベンチに腰掛けて、周囲をゆっくりと眺めた。
「お父さん、もうそろそろお昼だよ。琵琶湖も見たことだし、何か食べに行こうよ」
「もうそんな時間か」
二人は昼食を済ませ、アパートに帰った。
二階の部屋で、父は、先ほど撮影した映像をデジカメからパソコンに移した。
「琵琶湖は、本当にすばらしい眺めだったなあ。天気も良かったから、いい映像が撮れたよ」
「綺麗だったわね」
由美は、その横で購入したばかりの大津市史を開き、大津宮に関する所を読んでいた。
「それにしても大津宮跡は、なんか遺跡らしくなかったわね」
「そうだったよなあ」
「これを読むと、七十年代には、かなり詳しい大津宮跡の調査がされたようよ。でも、今ではもう難しいわね」
「住宅地の中だから、今となっては調査もままならないだろう」
父は、パソコンで先ほど撮影した映像のチェックをしている。
「ええっ、そうなの!」
大津市史を読んでいた由美が、何かに驚いていた。
「どうしたんだい?」
「大津宮の柱がね、再利用されていたんだって」
「再利用?」
「そうよ。リサイクルよ」
「変だなあ。確か大津宮は、壬申の乱で焼けたはずだよ」
「でも、これまでの発掘調査では、火災の跡はまったく認められなかったとあるわよ」
「どういうことなんだろう」
「焼けてないどころか、柱の抜かれた跡が明瞭に認められたそうよ」
「ということは、普通に引越しているということだよなあ」
「それに当時は、旧都の建材を再利用した例は多いとあるわ」
「再利用していたとは驚きだよ。だが、それをどこに使ったのだろう」
「それは、分からないみたいね」
由美が、大津市史を読み進めていると、柿本人麻呂の歌が紹介されていた。
『人麻呂が、滅んだ大津宮を偲んで詠んだ歌が載っているわ。そうだ、そういえば資料をもらったんだっけ』
由美は、博物館でプリントアウトした資料を手にした。
いくつかの歌を見ていたが、由美はふと疑問に思った。
「ねえお父さん、万葉集の歌なんだけど、志賀は必ずしもここの滋賀じゃないのね」
「どういうこと?」
「万葉集の原文を志賀で検索してもらったのよ。すると、博多湾の志賀島と、琵琶湖の大津がどちらも志賀で表現されているのよ。志賀は二ヶ所あったということかしら」
「ちょっと見せてくれる?」
父は、その資料を見た。
「こちらの歌は、志賀島で詠ったとなっているでしょう」
父は、由美の指し示す歌を見た。
志賀の海人の 塩焼き衣 なれぬれど 恋といふものは 忘れかねつも
「そうだね、海人がいて塩焼きといえば海だからね」
「それでね、こちらは滋賀県なのよ」
我が命の ま幸(さき)くあらば またも見む 志賀の大津に 寄する白波
「志賀の大津ねえ」
「ということは、志賀が二か所に存在したということでしょう」
「そうなるかなあ」
「福岡県と滋賀県よ。今なら行こうと思えば簡単に行けるけど、当時は簡単に行き来できるような場所じゃないわ」
「ところが、志賀だけでなく北九州と近畿に共通する地名はたくさんあるんだよ。それが、何を意味しているのか。そこには何か秘密が隠されているかもしれないよ」
「北九州と近畿にねえ」
「万葉集の中で詠われているこの志賀は、志賀島の志賀、つまり博多湾を詠っているように思えるなあ」
「でも、志賀の大津だと言っているのよ」
「博多湾も大きな津だよ。あのあたりも那大津と呼ばれていたからね。奴国の大津ということかな」
「そう言えば、あのあたりには奴国があったと歴史で習ったわね」
「これらの志賀と詠まれた歌からは、みなどことなく潮の香りがしてくるんだよ。さざ波にしても、白波にしても、博多湾の砂浜に打ち寄せる波を表しているように思えるよ」
「博多湾ねえ、どんな所なんだろう。そうなると、北九州はちょっと気になるね」
「そうだよなあ。北九州には、何かあるんだろうか」
「ところで、明日は奈良へ行くの?」
「ああ、行くよ」
「奈良のどこへ?」
「午前中は、国立博物館に行って、午後は大和三山のあたりを巡る予定だよ。由美も一緒に行くんだろう。万葉集の探索と言えば奈良だよ。そうだ、ちょうど今は、正倉院展もやっているよ」
「それいいなあ。絶対行きたい!」
「よし、一緒に行こう」
|