(8)中国の史書に、都『やまと』を求めて 

1)正史24史  
 わが国に残されている文献から、万葉集の時代の都『やまと』の所在を見出すことはできませんでした。そこから、中国の史書にその手がかりを求めることになりました。中国においては、次に成立した王朝が前王朝の歴史を書き残してきています。それは、自らの正統性を主張することだったのかもしれません。
 その史書が正史24史として残されています。その中から、この列島のことが描かれている12の史書を検証することにしました。
 ここでは、その主な内容をご紹介いたします。
 

2)漢書 

 樂浪海中有倭人、分爲百餘國、以歳時來獻見云。
 楽浪の海中に倭人あり。分かれて百餘国をなし、歳時をもって来たり獻見すと云う。

 漢書は、紀元1世紀後半に、後漢の班固が記したとされています。これが、この列島について初めて中国の史書に登場した部分で、この列島には百余国があって、時々朝貢していたとあります。
 『倭人』という表現は、大陸の王朝から見たこの列島の人々を蔑視した表現で、南方には、小さい人間が住んでいるといった意味を持っています。大陸に王朝が誕生した時から、その王朝によってこの列島は卑下されていたようです。それは、基本的に、王朝とは、人を見下し差別する体制だからでもあります。今のわが国に残る『差別』の原点は、ここにあるとも言えます。
 この漢書には、特に、この列島の都についての記述はありません。


3)三国志魏書烏丸鮮卑東夷伝倭人の条(魏志倭人伝)

 東南 陸行五百里、到伊都國

 東南へ陸を五百里行くと、伊都国に到る。

 『三国志』魏書烏丸鮮卑東夷伝に登場する倭人の条は、所謂『魏志倭人伝』とも言われていますが、3世紀末、西晋の時代に陳寿が記したとされています。漢書よりも詳しく『倭人』について記されています。そして、倭に至る道のりをめぐって『邪馬台国』は何処にあったのかが論じられてきました。
 私も、『邪馬台国の女王卑弥呼』が、どのように描かれているのか、期待をしながら見ていきました。しかし、この魏志倭人伝のどこにも『邪馬台国の女王卑弥呼』を意味するような記述はありませんでした。それどころか、『邪馬台国』すら出てきません。
 確かに『倭に至る道順』は、記されているのですが、それは『伊都国』に至る道順でした。そこは、帯方郡からの使者が常駐する、今で言う大使館といった場所で、その地に至るための道順が描かれていました。

 南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。
 南至る、邪馬壹國、女王の都する所、水行十日、陸行1ヶ月。

 その伊都国から周辺の国がいくつか紹介されていました。その中に、女王国が登場していましたから、これが卑弥呼の住まいしている国だと思われます。しかし、その国名は、『邪馬壹國』とあります。
 これ以外、どこを見ても『邪馬台国』などという記述は出てきません。
 どういうことなのでしょう。『邪馬壹國』が、『邪馬台国』ということなのでしょうか。
 そこで、『壹』という文字を調べてみました。しかし、その『壹』という文字の意味は、数字の『壱』、つまり『一』を意味する文字でしかありません。全然『台』などと解釈できるような文字ではないのです。

 國國有市、交易有無、使大倭監之。自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之。常治伊都國、於國中 有如刺史。王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國、及郡使倭國、皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯。
 國國に市あり。有無を交易し、大倭の使いがこれを監督する。女王國より以北には、特に一大率を置き、諸國を 檢察する。諸國これを畏憚す。常に伊都國にて治める。國中において刺史の如きあり。王、使を遣わして京都、帯方郡、 諸韓國に詣り、および郡の倭國に使するや、皆津に臨みて捜露し、文書、賜遺の物を伝送して女王に詣らしめ、差錯するを得ず。

 国々に は市が立っていて、色々な物を交易しており、大倭がこれを監督していたとあります。また、女王國より北では、特別に一大率(いちだいそつ)を置いて、諸国を検察させており、諸国では、これを畏れていたともあります。この一大率も伊都国に常にあって治めていたとあるように、やはり、伊都国は、当時の支配体制において大きな役割をはたしていたと考えられます。
 さらに、その中にあって、『大倭』が、強力な権力を持っていたことが伺えます。『大和』ではありませんが、『大倭』が登場しました。
 また、王が使いを使わして魏の都や帯方郡・諸韓国に朝遣する時や、帯方郡の使いが倭國を訪問してきた時、大勢で港に出迎え、文書や贈り物を調べて女王の所へ届けさせているが、間違いはなかったともあります。
 『女王国』以外にも、『大倭』という強力な権力があることや、『王』と『女王』を記していることから、この列島には、『女王卑弥呼』だけでなく、強力な権力を持つ『王』も存在していたことが分かりました。
 つまり、大きくは、二つの勢力があったということのようです。
 そして、その『王』と『女王』は、敵対しているというよりも、統一した勢力のようです。その統一した権力機構が『一大率』のように思われます。
 さらに、この列島には文字がなく、7世紀頃になって文字が導入されたと言われることがありますが、ここにもあるように、文字で以って大陸との交流がなされており、この列島では文字が普通に使われていたようです。
 今まで思っていたようなイメージとは、大きくかけ離れた記述が、魏志倭人伝には出てきました。
 まだまだ、魏志倭人伝は続きます。
 この後には、どういったことが描かれているのでしょう。
 




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