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万葉紀行
由美と行く 

6、
 「絵里ちゃん、じゃあこれでしばらくお別れだね」

 「恒之さんもお元気で」
 ステーションビルで、二人一緒に昼食を食べたが、全然味なんか分からなかった。
 改札口に来ると、お世話になった人や大学の後輩たちが来ていた。
 あらかじめ、時間は伝えていたので、卒業して実家に帰る自分を見送りに来てくれた。
 「体に気をつけてね」
 「また、遊びに来てくださいよ」
 ホームに出ると口々に別れの言葉をかけてくれた。
 そして、学生寮で同室にもなった1年後輩の植田君と別れの握手を交わした。

 そのうち、電車が入った。
 「西山君、ばんざ〜い」
 「ばんざ〜い」
 いろいろとお世話になった盛高氏が万歳三唱をしてくれて、みんなもそれに合わせていた。
 「どうもありがとうございました。皆さんも、どうかお元気で。又、遊びに来ます」
 そう言って、恒之は電車に乗り込んだ。
 ドアが閉まり、ホームで手を振る人たちの姿が次第に遠のき、やがて見えなくなった。
 『四年間生活したこの地ともお別れか』
 窓からは、見慣れた風景がどんどんと後ろへ遠ざかっていく。
 恒之は、これまで出会った人たちの顔が次々と思い出されてきた。
 『みなさん、さようなら』
 恒之の目には、涙が溢れてきた。
 それも止めどなく流れ、嗚咽するほど悲しみが込み上げてきた。
 どうしてこんなにも泣けてくるのか、自分でもよく分からなかった。
 辛くて、辛くて仕方がなかった。

 座席に座り、顔を上に上げられなかった。
 そうしていると、どこからともなく声がしてきた。
 「お父さん、お父さん」
 「んんっ?」
 「お父さん、どうしたの? 何かうなされていたわよ」

 恒之は、目が覚めた。
 「ああ、夢だったのか」
 「どんな怖い夢を見たのよ」
 由美が、枕もとで笑っていた。
 コタツの横に布団が敷いてあり、恒之はその中で寝ていた。
 「布団を出してくれたんだ。ありがとう」
 「コタツじゃ風邪をひくからね」
 「夢の中で泣くと、本当に涙が出るんだ」
 「お父さん、夢の中で泣いていたの」
 「ああ、大学を卒業して帰る時の夢をね。今でも時々見るんだよ」
 「よっぽど辛かったのね」
 「四年間そこで暮らし、いろいろな人との出会いがあり、その人たちとの多くの思い出を残して帰ってしまうんだからね。そりゃ、辛いよ」
 「彼女も残していたりして?」
 「ちょうど、卒業前にちょっとだけ付き合っていた人がいてね。卒業後も、時々会いに行ったけど、やはり長くは続かなかったよ」

 「そうなんだ」
 「何で、今、こんな夢を見たのだろう。まあいい、さあ起きるか」
 恒之は、布団を片付け、下に降りて簡単に朝食を済ませた。
 「お父さん、今日はどうするの」
 二階に上がると、由美がコタツに入っていた。
 「今日は、明石に寄って、明石海峡大橋の写真でも撮って、あとはもう帰るだけだよ」
 「明石?」
 「そう、人麻呂の『鄙の長路ゆ恋来れば』って歌を知っているかい」
 「知っているわ。長旅の帰りに明石まで戻ったら、はるか先に大和路が見えるよって歌でしょう。お父さん、まだまだ万葉集から離れられないようね」
 「もう、次々と疑問が湧いてくるんだ。最近は、その歌の解釈がどうにも納得がいかなくて、とにかく一度行ってみようと思っていたんだよ」
 「でも、早く家のある大和に帰りたい、その大和への道が見えて来たよって、情感のこもったいい歌に思えるけどね」
 「それって、旅の終わりが近いことを意味しているだろう」

 「そうよね。帰り道での歌だよね」
 「つまり、東を向いているってことだろう。ところが、万葉集をよく見ると、そうとは思えないんだよ」
 「ええっ、どういうこと?」
 「歌の流れからいくと、旅の始めの歌で、西を向いているとしか思えないんだ」
 「西を向いていたら、大和路なんか見えないわよ」
 「だから、変だと言っているんだよ」
 恒之は、袋の中から資料を出してきた。
 万葉集第三巻のコピーだった。
 「ほら、ここからだよ」
 《柿本朝臣人麻呂が羈旅の歌八首》とあった。

 三津の碕 波をかしこみ こもり江の 舟公宣奴嶋尓

 「この歌がまず最初に来ているんだよ。下の句のところは解釈が統一できていないのかな。とにかく、三津の碕は波が荒いが、奴国の嶋に向けて船出したということだろう」
 「出発した時の雰囲気が伝わってくるようね」

 玉藻刈る 敏馬(みぬめ)を過ぎて 夏草の 野島の崎に 船近付きぬ

 淡路の 野島の崎の 浜風に 妹が結びし 紐吹き返す

 荒たへの 藤江の浦に すずき釣る 海人か見らむ 旅行く我を

 「船出して、流れ行く風景を見ながら詠んだ歌って思えるだろう」
 「風を受けながらも船は進んでいて、気持ちの良い船旅を楽しんでいるようね」

 稲日野も 行き過ぎかてに 思へれば 心恋しき 加古の島見ゆ

 ともしびの 明石の大門に 入らむ日や 漕ぎ別れなむ 家のあたり見ず

 「このあたりまで来ると、夕方になってきて、ちょっと心寂しき思いをしているみたいだね。そして、明石まで来たら、明石海峡に夕日が沈むし、家の方は全然見えなくなったと、ここで東を振り返っているんだ」
 「そうね、ちょっと傷心が、垣間見えるわね」
 「さて、問題の歌は、この次に出てくるんだ。原文も含めてよく読んでごらん」


 天離(あまざかる) 鄙(ひな)の長道ゆ 恋ひ来れば 明石の門(と)より 大和島見ゆ 

 天離 夷之長路従 恋来者 自明門 倭嶋所見


 「明石で綺麗な夏の夕日を見ながら、東を見たら家がもう見えなくなった。そういう思いで明石海峡に来ているんだよ。そして、しみじみとこの歌を詠った」
 「そうねえ、歌の流れからすると、旅の終わりの歌でないことは確かのようね」
 「次の歌を読めば、もうそれは確実だよ」

 飼飯(けひ)の海の 庭良くあらし 刈りこもの 乱れて出づ見ゆ 海人の釣り船

 「飼飯の海は、良い漁場のようだ乱れるように釣り舟が出て行くのが見えるよと詠っているだろう。つまり、明石に泊まって、次の日の朝、出発しようとした時の活気あふれる情景を詠っているんだよ」
 「そうね。瀬戸内海の朝の風景を眺めている様子が伝わってくるわね」
 「ということで、これら八首は、旅に出かけた時の情景を詠った歌で、その七首目だけが帰りの歌だなんて、到底あり得ないと思わないかい」

 「そうね。じゃあ、大和島見ゆとは、何を見たのかしら」
 「だろう。だから、とにかく今日は明石に行くんだよ」
 「いったい、人麻呂は何を見たのかしら。本当に謎だわね。そうだ、お父さん、私も一緒に行くわ」
 「ええっ、帰りはどうするんだ」
 「大丈夫よ。明石から電車に乗れば、一時間半ほどで帰って来れるわ」
 「本気かい」
 「私もこのままでは、納得がいかないわ」
 「そうか、ではそうするか。今日は天気も良さそうだから、見晴らしはきっといいだろう」
 「わあ、どんな風景が見れるんだろう」
 「本当は、人麻呂と同じように、夕日が沈む頃に行きたいんだよ。でも、帰るのが遅くなってもいけないし、早く出ようか」
 「そうね」
 二人は、身支度をして、明石に向けて出発した。
          




                      

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