唐王朝による列島征服の軌跡
列島に非難した唐王朝貴族

 唐王朝は、この列島を朝鮮半島や東アジア制圧のため、反唐勢力の影響を排除するといった目的で支配し続けます。その支配者集団は、唐(藤)を源(原)とするという意味で、藤原氏を構成しました。当初は、屯田兵といったところから次第に勢力を拡大し、倭人を小作人として荘園で支配するようにもなります。その荘園は、近畿地方から各地に広がり、同時に藤原氏は、近くの近藤、遠くの遠藤、伊賀の伊藤、加賀の加藤、王朝を補佐する佐藤などと列島に広く派生し、倭人を支配していきます。
 唐王朝による植民地と化したこの列島ですが、それはこの列島を唐の支配下にしておくということが最大の目的でもありました。その軍事的強制力は、『武士』でしたが、それは『武氏』、つまり『武則天』との関わりのある勢力でもあります。
 『武士』は、それまでこの列島には存在していませんでした。ですから、その『武士』がどういった勢力なのか紹介するような形で、万葉集にも詠い残されています。
 『天雲之 向伏國 武士登 所云人者 皇祖 神之御門尓 外重尓 立候 内重尓 仕奉 玉葛 弥遠長 祖名文 継徃物与』(3-443)
 この歌はまだ先があるのですが、『天雲の向こうに伏す国で武士と言われている者は、皇祖神の門の外に立ち、あるいは中で仕え奉る者で、その名は遠い将来にわたって継ぎ行くものだ』と詠われています。
 つまり、元々この列島に『武士』と言われる集団は存在していなかったので、それを紹介しているようです。天雲遥か向こうに伏す国とは、唐を意味しています。すなわち、この列島の『武士』にとって唐王朝は、皇祖神となります。その唐王朝を守るのが『武士』だと記しています。そして、この歌の通りに、徳川時代に至るまで藤原氏の守護を任務とする『武士』が存在していました。
 この歌が詠まれたのは、天平元年(729)とあり、それは藤原光明子が聖武天皇の皇后となった年でもあります。その天平という年号は、唐王朝藤原氏によって『天』が平定されたことを意味しているようでもあります。
 ところが、その盟主唐王朝が反乱軍によって滅ぼされ、庶民を散々収奪してきた貴族たちは徹底した殺戮・掃討といったことにより大陸から駆逐されてしまいます。彼らが、逃れていくとすると、その支配下にあったこの列島に一時身を置くしかありませんでした。
 奈良の東大寺正倉院には、分かっているだけでもおよそ1万点もの宝物が残されています。正倉院は、聖武天皇の遺品を納めたところから始まったとされていますが、その聖武天皇の遺品は、当初600点あまりで、およそ半数は消失しています。つまり、正倉院に残されている宝物のほとんどは、その後に持ち込まれた物です。
 また、正倉院の近くにある聖語蔵には、隋・唐時代の経巻が5千巻も残されていました。これらは、その唐王朝が滅亡する折に、反乱軍に奪われないように、彼らによって運び込まれた物だと考えられます。東大寺の『東』とは、『唐』を意味しているのかもしれません。
 また、日本書紀私記にも、同じく唐が滅亡する前後の時期に、日本書紀のかなり詳しい講座がおよそ30年おきに6回開催されています。当時、唐からやってきていた人たちへの『教育』として開催されたとも考えられます。
 しかし、大陸に王朝が誕生して以来、獣のごとく蔑視してきたこの列島にいつまでも居るわけにはいきません。早晩、再び大陸に舞い戻り、唐王朝を再興しなければなりません。しかし、貴族の彼らにとって、そんな戦闘能力はありませんし、大陸を再び制覇できるような勢力も直ぐには持ちえません。
 そこで、彼らは、しばらくはこの列島に身を潜め、後世の藤原氏にその大陸回帰という悲願を託すしかそのすべはありませんでした。そして、大陸からの追手や、この列島に残っていると考えられる出雲王朝の勢力から身を守り、後に大陸へ侵攻する時のために兵力を増強していきます。
    



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