唐王朝による列島征服の軌跡
唐王朝滅亡

 唐王朝は、第3代皇帝高宗李治の時代に高句麗を征服し、東アジア一帯をもその支配下に置き、当時、世界で最大の帝国を築きます。
 しかし、高宗李治は病弱であったため、その実権は皇后武則天が掌握し、恐怖政治が横行します。その李治が亡くなると、武則天による専横はさらに強まり、第4代皇帝中宗が武則天に反抗しそうになると直ちに廃立し、傀儡の第5代皇帝睿宗も数年で皇太子に降格させ、ついに自らが皇帝位に就きます。その武則天の専横は目に余るものがあり、周囲から反発を招きますが、武則天はその反対派数百名を殺害しています。
 武則天の死後、中宗が復位しますが、その皇后である韋后は、武則天のような皇后による支配を目論見、中宗を毒殺して帝位に就こうとします。しかし、睿宗の子李隆基によってはばまれ、韋后は殺害されます。
 睿宗が復位するものの数年でその子李隆基に譲位し、ここに玄宗皇帝李隆基が誕生します。玄宗皇帝による治世の前半は、『開元の治』と言われる『善政』が行われています。しかし、その『善政』も、一部貴族にとっての『善政』であって、貧富の格差は広がっていきます。そして、没落した貧農を、貴族たちは、荘園で小作人として使用するようになります。
 一方、玄宗は、異民族の侵入に備え『節度使』を設置して募兵集団の指揮を取らせます。しかし、751年、イスラム大帝国のアッバース朝との戦いに敗れ、唐王朝は衰退傾向に陥ります。玄宗も、晩年楊貴妃を寵愛し、治世を楊国忠に任せてしまい、唐王朝は、大きな動乱状態に陥ることになります。
 その楊氏一族に不満をもった節度使安禄山は、755年洛陽を占領し、翌年自国を建て、さらに都長安を陥れ、玄宗は退位します。これが安史の乱と言われるもので、756年、楊貴妃や楊国忠は、四川に逃れる途中、軍隊に殺されてしまいます。
 唐王朝は節度使を増兵するなどして盛り返し、763年、安史の乱は鎮圧されます。しかし、安史の乱によって律令制度は凋落し、唐王朝貴族の権威が衰退する一方で、軍事機構としての節度使が次第に兵力も財力も強めて民衆にも大きな影響力を持つようになります。その反面、支配力や財力が低下する唐王朝は、塩の専売により税収を高めようとするのですが、それがさらに王朝貴族への反発を招きます。
 唐王朝貴族による圧制に対し、山東の塩の密売商人だった王仙芝と黄巣が、圧政・飢饉への反発で大農民反乱を起こします。この黄巣の乱(875〜884)で長安は陥落、穀倉地帯は壊滅し、江南地方は荒廃してしまいます。それでも、唐王朝は反乱軍を寝返らせるなどの工作で反乱を一時沈めます。その黄巣の乱を鎮圧した功績で節度使朱全忠が、901年梁王となります。
 その梁王朱全忠は、門閥貴族など唐の残党を残らず一掃したあと、唐王朝最後の皇帝である哀帝に禅譲を迫り、帝位について太祖となり、後梁を建国し、ついに907年、唐王朝を滅ぼしました。唐王朝貴族は、各地で惨殺され長安でも黄河に放り込まれるなど、徹底した殺戮の憂き目に会い、大陸から貴族勢力は一掃され消滅します。
 それは、散々民衆を虐げ収奪してきたことによるもので、自業自得と言う他はありません。
 その唐王朝貴族の一部は、反乱による殺戮の手を掻い潜り、この列島にまで逃れてきていました。そして、大陸を放逐されたその怨念を子々孫々にまで伝え、その復讐と唐王朝再興を必ずや遣り遂げるよう指示しています。
 では、唐王朝崩壊によってこの列島はどのような影響を受けたのか検証してみましょう。
  



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