永らく分裂を繰り返していた中国王朝ですが、581年、楊堅が隋を建国し、589年全土を統一しました。しかし、統一はしたものの、第2代煬帝で隋は滅んでしまいます。煬帝は、父である初代皇帝楊堅(文帝)がやりかけていた高句麗遠征を3度も試みるのですが、ことごとく失敗してしまいます。内政においても、百万人もの民衆を動員して華北と江南を結ぶ大運河(高句麗遠征対策)を建設したり、さらに民衆への度重なる負担で各地に反乱が発生し、隋は大混乱に陥ります。
 その混乱に乗じてとばかりに、隋の武将でもあった李淵は、首都大興城を陥落させました。そして、煬帝を太上皇帝に奉り上げ、617年、煬帝の孫、恭帝侑を傀儡の皇帝に立て、隋の中央を掌握しました。その翌年、江南にいた煬帝が近衛軍団に殺害されると、李淵は、恭帝から『禅譲』を受けて即位し、唐を建国しました。
 とは言え、隋も唐も同じ鮮卑族による貴族政治であって、その王朝の担い手が代わったに過ぎません。
 また、李淵は、隋の武将であっても、皇帝位を引き継げるような血縁関係にはありません。ですから、煬帝の失政や民衆の反乱に乗じて首都を制圧し、自分の思い通りになり、かつ隋王朝の血縁関係にあたる人物をまず即位させます。そして、前帝の煬帝が殺害されると、その傀儡の恭帝から『禅譲』を受けて皇帝に即位するのです。
 つまり、皇帝の地位をそれに相応しい血縁関係にある者へ引き継ぐ場合は、『譲位』とされるのでしょうが、そういった血縁関係に無い者へ『合意』の上でその地位を引き渡すことが『禅譲』とされています。近親者がいないといった場合なら、そういうこともあるのかもしれませんが、通常は血縁関係に無い者へ喜んで皇帝位を譲り渡す天子はまずいないでしょう。『禅譲』の多くは、強制的に皇帝位を奪い取った者による、その征服を正当化するための欺瞞的手段で、実質的には『簒奪』とも言えます。
 あくまで、征服者・勝者にとっての都合の良いやり方です。
 まずは、混乱に乗じてクーデター的に武力でもって制圧し、その後に都合よく、まるで強制ではなく譲られたんだという形で皇帝位に就くわけです。
 煬帝が、ことさら暴君だったと描かれているのも、その李淵による『簒奪』を正当化しようとするものなのかもしれません。
 これが、唐王朝を築いた李淵の手法です。
  




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唐王朝による列島征服の軌跡
クーデター的手法で唐を建国