唐王朝による列島征服の軌跡
謀略で実権を握った武則天

 唐王朝第2代皇帝太宗、李世民の時代は、『貞観の治』と言われるほどに善政が行われたと評されてもいます。しかし、第3代皇帝高宗、李治の時代になると、大きく治世が変貌していきます。 649年、李治は、皇帝位に就くも病弱だったため、655年に皇后となった武則天が実質的支配者となります。
 武則天は、624年生まれで、幼名、あるいは本名を『武照』と言い、14歳で第2代太宗の後宮に入り、その後李治高宗に取り入ります。その高宗との間に娘が誕生するのですが、武則天は、わが子を自らが絞め殺し、それを王皇后の仕業だとして、王皇后を皇后の座から蹴落とします。武則天は、自分が権力の座を仕留めるためには、わが子をさえも自らの手で抹殺するという残忍な手法を使っています。
 この時点で、武則天は人間性を喪失しています。李世民は、武則天を遠ざけていましたから、あるいはその本性を見抜いていたのかもしれません。しかし、李治は、4歳年上の武則天に心を奪われ、周囲の反対の声も聞かず、武則天を皇后にしてしまいます。
 皇后となった武則天は、その王前皇后等を虐殺しています。
 武則天は、王前皇后と蕭前淑妃を百叩きにした上に、四肢を切断して、「骨まで酔わせてやる」と言って酒壷に投げ込み、二人は酒壷の中で数日後に絶命しています。蕭前淑妃は、『次は猫に生まれ変わり、鼠に生まれ変わった武則天を食い殺してやる』と呪いながら亡くなり、後年の武則天は宮中で猫を飼うのを禁じたと言われています。
 こうして、まるで鬼畜かのごとく唐王朝の実権を握った武則天は、身内の武氏一族を重用しますが、冷酷非道に子や孫であろうと自らに反抗する者を容赦なく抹殺し、また密告により反対派を徹底して潰すなど、独裁的な恐怖政治を横行させました。
 ですから、漢代の呂后、清代の西太后とともに『中国三大悪女』と称されてもいます。
 また、隋を滅ぼして唐を建国した李淵は、『天子になるであろう』という道教からの予言が、その行動の根底にあったとも言われています。そして、唐王朝初代皇帝高祖となった李淵は、主要な3宗教に、『道教・儒教・仏教』という順位を付けて道教を推奨しました。それに対し、仏教徒は、太子李建成を支持して巻き返しを図ろうとするのですが、道教に推される李世民が李建成を廃し、第2代皇帝となります。
 この道教を重視する動きは、第3代皇帝高宗の時代になるとさらに強まり、高宗は老子を道教の祖『聖祖大道玄元皇帝』として崇めます。というのも、『史記』に、老子の名前が『李耳(りじ)』と伝えられていたので、唐王朝の李氏は、同姓の老子を自らの祖先としたからでもあります。それは、高宗の名前が『李治(りじ)』というところにも現れているようです。老子は、上巻『道経』、下巻『徳経』を残しており、李治は、それらを『道徳経』として推奨しています。
 また、当時の道教にあっては、錬丹術、あるいは外丹とも言われますが、丹、つまり水銀を服用することで不老不死の仙人になることができると考えられていました。辰砂などから取り出した硫化水銀を原料とする仙丹を、皇帝たちは不老不死の妙薬だとして求めていました。
 李治高宗が病弱だったというのは、あるいは水銀中毒の可能性もありそうです。
 そして、高宗の皇后となる武則天も、李世民が亡くなった時に女性道士となり、李治も武則天も、道教に大きく関わっています。
 その道教では、天の中心を為す北極を『北辰』と呼び、宇宙の中心だとしていました。それが、神格化され、『天皇大帝』とも呼ばれていたのです。こういった考え方を基にして、660年、武則天は皇帝を『天皇』とし、自らも『天后』と改名しています。
 ここにこそ、我が国の今にまで続く天皇制の『ルーツ』があります。
 このように、道教に深く関わった李治と武則天でしたが、その錬丹術の中心である水銀は、不老不死の仙薬どころか、逆に水銀中毒を起こす猛毒です。
 李治が亡くなってそれを悟ったからでしょうか、武則天は、皇帝に就くと一転して仏教を推奨するようになります。自らを弥勒菩薩の生まれ変わりだと称して、仏教を道教の上に置きます。
 この武則天の時期に、仏教は大きく勢力をひろげます。
 しかし、705年武則天の退位とともに、再び道教が上位とされ、天皇も皇帝に戻されてしまいます。 一時、武則天は、絶対的な権力を手中にして権勢を振るいますが、李氏唐王朝宗家からすれば、所詮は外戚だということなのかもしれません。
   



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