私はこうして『邪馬台国』に到達した!

(21)万葉集に残されていた卑弥呼の歌 

1)358本の銅剣の意味
 唐王朝によって、この列島が占領・征服されたことが認識できますといろいろなことが見えてきます。
 まず、荒神谷遺跡から発掘された358本の銅剣ですが、出雲では製鉄は行なわれていましたが、銅は産出されませんから、他の地域から持ち込まれたということになります。調べによると、その銅剣は、2~3世紀頃に造られたものだと言われています。また、358本という数が何を意味しているのかを調べますと、およそ当時の出雲における神社の数に相当するのです。『出雲風土記の中にある神社の数から、その当時に新しく作られた神社の数を差し引くとちょうど358になる』という説もありました。つまり、出雲の地に古くからある神社に奉納されていたのが、その銅剣だということになります。そうなりますと、神社に大切に奉納されていた銅剣が、唐王朝に征服されて没収されないように、そこに密かに埋められたということが考えられます。また、いつの日か、出雲王朝再興の折に、取り出そうと考えたのかもしれません。
 しかし、それは叶わず、1300年を経た今の時代に、道路建設に伴い、ようやく日の目を見ることになりました。それは、ある意味、タイムカプセルとも言えます。
 ところが、そのタイムカプセルの意味を理解でき、かつそれを引き継げるような末裔は、もはや存在していませんでした。、

2)卑弥呼の里に残されている『日本一大きい太刀』

 06年8月22日、私は、卑弥呼の里である宮崎県の西都原に向かいました。その卑弥呼が居た地だと考えられる場所には、現在、都萬(つま)神社があり、そこには、長さ約3.5メートル、重さ約64キログラムもある『日本一の太刀』と言われる鉄製の大太刀が奉納されていました。かなり錆びもあり、相当古そうな太刀です。九州には銅剣の文化はありますが、鉄製の太刀は作りません。
 これらは、いったいどういうことなのでしょう。
 製鉄文化圏の出雲で銅剣が358本発見され、製銅文化圏の九州に鉄製の巨大太刀が奉納されていました。
 これには、何らかの相互関連でもあるのでしょうか。
 
3)『一』+『大』=『天』
 魏志倭人伝には、「一大国」あるいは「一大率」といった、「一」と「大」という国名に関わる記述があります。また、その魏志倭人伝には、「倭王」と「倭女王」という記述もありました。さらに、日本書紀私記には、「北倭」と「南倭」という二つの国があり、「北倭」が国を為し、「南倭」が女王国だという認識も残されています。
 魏志倭人伝には、その女王国の国名が「邪馬壹国」とありました。つまり、女王国であるところの卑弥呼の国は「一」を象徴としています。
 一方、「大」を象徴する国と言えば、「大国」です。その国の支配者こそが「大国主命」で、今で言えば総理大臣といったところでしょうか。この出雲の「大国」こそが、国を為した「北倭」で、卑弥呼の国が「南倭」に相当します。
 およそ190年頃、「倭国大乱」を制して、卑弥呼を共立したという魏志倭人伝の記述にもあるとおりです。その覇者である「スサノオ尊」は、この列島を制し、卑弥呼と共に国の制度を確立します。そして、卑弥呼の国の国名には「一」を、スサノオ尊の出雲の国には「大」を付けました。
 では、それが何を意味していたのでしょうか。
 私は、その二つの国名を併せると「天」になるというところに気づきました。すなわち、スサノオ尊と卑弥呼でこの世界を包括するところの「天」を構成するという壮大な概念がそこにあったと考えました。つまり、出雲の勢力と九州の勢力の統合の象徴でもあります。「天の香具山」の「天」です。
 では、どうして卑弥呼の国が上に位置する「一」で、スサノオ尊の国が下に位置する「大」なのでしょう。スサノオ尊は、征服者ですから「一」を名乗ってもいいはずです。そこには、スサノオ尊の信念が込められていると思われます。スサノオ尊は、先住勢力を奉ったということなのでしょう。スサノオ尊の勢力は、鉄を供給できますが、騎馬民族ですから農耕はできません。在来の勢力は、農耕が出来ても製鉄はできません。その両者の結びつきの基本を「一」と「大」という国名で後々にまで伝えようとしたのでしょう。食料を作り出す先住勢力を、あくまで「一」として上に奉るという概念です。
 両者の統合の国家的象徴が「天」で、その象徴は、全国津々浦々で、神社という形態で奉られていきました。神社の入り口にある鳥居は、国家的象徴である「天」を象ったものです。また、神社は、五穀豊穣、農耕を最も大切に奉っています。その最大の行事が、収穫祭としての秋祭りです。ですから、スサノオ尊と卑弥呼の統合は、わが国の歴史にあっても、この列島全域が沸き立つほどの、最も歓喜に溢れた時代だったとも言えます。
 卑弥呼の里である西都原、日向国の一宮「都農神社」の神紋は「一」で、今の時代にまでその国名の名残は残されていました。その都農神社には大国主命が奉られています。都農神社と都萬神社、これは「殿」と「妻」でもあり、スサノオ尊と卑弥呼をも意味しています。都萬神社の地名は、「妻」そのものです。
 一方、出雲の地では、あちこちの神社で「大」が神紋として残されています。
 「天」を構成するには、卑弥呼の国は「一国」で、出雲の国は「大国」でなければならなかったのです。
  
4)統一王朝を築いた証・・・現代における結婚指輪
 こういったことから、また、新たな世界が見えてきました。
 統一王朝を築いたスサノオ尊と卑弥呼ですが、この両者は、それぞれの国を訪れたことでしょう。そうなりますと、それぞれお互いの国を象徴するものを何か携えて行ったと考えられます。それこそが、出雲の地に残されている『358本の銅剣』と、卑弥呼の里「都萬神社」に奉納されている『日本一の太刀』ではないでしょうか。
 スサノオ尊は、製鉄の国「大国」から可能な限りの巨大な刀を造り、「一国」を訪問し卑弥呼に贈呈した。一方、卑弥呼は、製銅の国「一国」から「大国」の神社の数である358本の銅剣を造り、「大国」を訪問しスサノオ尊に贈呈した。つまり、統合の証、現代における結婚指輪の交換といったことではなかったかというストーリーが浮かんできました。
 わが国の歴史にあっては、最大のドラマだとも言えます。
 
5)万葉集は、スサノオ尊の歌で始まる
 先に、万葉集は、人麻呂によって編纂されたという認識に至りました。そして、人麻呂は、自らの歌や出雲王朝に伝わる「やまと歌」を、そこに綴りました。
 そうなると、冒頭には、誰の歌を掲げるでしょう。出雲王朝の創始者であり、わが国の国づくり、その基礎を築いた最強の神「スサノオ尊」でしょう。
 「古今和歌集」にある紀貫之による「仮名序」の冒頭には、「やまと歌」は、スサノオ尊に始まるという記述があります。すなわち、スサノオ尊により出雲王朝が築かれ、その都のある地は「やまと」と呼ばれていて、そこで詠われる「やまと歌」は、スサノオ尊に始まったという認識が残されています。
 その出雲王朝の姿を残した万葉集の冒頭には、間違いなくスサノオ尊の歌が掲げられていると考えられます。
  
6)万葉集第2首は、卑弥呼の歌だった
 では、その万葉集の2番目には、誰の歌を持ってくるのでしょう。
 私は、スサノオ尊と共に統一王朝を築いた卑弥呼の歌ではないかと考えました。
 当初、その第2首がどこで詠われたのかに疑問を抱き、いろいろと調べていく中で、出雲大社の地にある奉納山で、時の大王が国見をしながら詠んだという認識に至りました。しかし、そこには、何かしらまだ解明しきれていないという疑念も残っていました。それは、自分が治める国を、眺めて誉めるのだろうかという点です。それを思ったとしても、歌にまでするかと、いささか疑問に思っていました。あまりにも、自己満足的な歌としての解釈ではないだろうかということです。
 その疑問も、スサノオ尊と卑弥呼がお互いの国を表敬訪問し、それぞれが記念となる物を持参したという認識から解明に至りました。つまり、遠く日向の国から国賓がやって来るということで、スサノオ尊は、それに併せて周辺の景観を整備したことでしょう。その歓迎のセレモニーの1つとして、「やまと」の国を一望できる奉納山に案内して、2人がそこで「国見」をしたのではないかというシチュエーションが見えてきました。
 それだと、卑弥呼が「やまとの国は綺麗ですねえ。素晴らしい眺めです」と、その感動を歌にして残されたのも納得がいきます。今に残る「奉納山」の山頂で、スサノオ尊と卑弥呼が「国見」をしていたといったことを想像しますと、それは「鳥肌」が立つほどに歴史的で感動的な場面でもあります。だからこそ、その山は「天の香具山」として大切に維持され、唐王朝に征服された後も、「奉納山」という名前にはなりましたが、周囲4つの神社で守られてきているのでしょう。
 第2首は、そこに居する大王の自画自賛の歌ではなく、卑弥呼という国賓がスサノオ尊が治める国を褒め称えたということが、その第2首のモチーフだったという結論に至りました。
 そうなりますと、冒頭第1首は、スサノオ尊が、西都原の地に行った時に詠んだ歌なのかもしれません。
 どちらにしましても、出雲王朝のラストエンペラー柿本人麻呂は、出雲王朝の滅亡にあたり、その姿を残そうと万葉集を編纂し、その冒頭には、スサノオ尊と卑弥呼の歌を掲げたと考えられます。
 そして、その万葉集に登場する「日皇子」こそが、大陸の史書に「卑弥呼」とある蔑称の本当の表現だったのではないでしょうか。
 





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