邪馬台国検証

(8) 隋書に登場した邪馬台国の倭王
 隋書には、倭王が君臨する都「邪馬臺」の姿が魏志倭人伝に描かれていると指摘していました。
 そして、その「邪馬臺」の倭王は、隋の時代にも代々引き継がれてきているとも述べています。
 その倭王が、隋に使者を送っています。

開皇二十年、倭王姓阿毎、字多利思北孤、號阿輩[奚隹]彌、遣使詣闕。上令所司訪其風俗。使者言倭王以天爲兄、以 日爲弟、天未明時出聽政、跏趺座、日出便停理務、云委我弟。高祖曰:「此太無義理。」於是訓令改之。王妻號[奚隹]彌、後宮有女六七百人。名太子爲利歌彌多弗利。無城郭。内官有十二等:一曰大徳、次小徳、次大仁、 次小仁、次大義、次小義、次大禮、次小禮、次大智、次小智、次大信、次小信、員無定數。

 隋書に、「邪馬臺」の倭王が登場しています。倭王の姓は阿毎、字は多利思北孤、号は阿輩き彌、おおきみと呼ばれていたようです。
 この倭王が、開皇20年(600年)、隋に使者を送りました。
 その使者が、訊ねられて答えています。
 『倭王は天を以って兄と為し、日を以って弟と為す。 そして、天が未だ明けざりし時、出でて政を聽き、跏趺して座し、日出ずれば便ち理務を停めて、そして云う、我弟に委ねん』
 隋とは初対面になるので使者は、倭国の国家形態について述べています。倭王が、天と日の関係を兄弟のように紹介しています。つまり、それは、この列島の国家的象徴と実質的支配者のことを意味しています。この世界を包括するところの『天』ですが、しかしその『天』には支配力はありません。その力を持っているのは、太陽、つまり『日』です。この宇宙全体を含む概念を、国家形態に反映させていると考えられます。ですから、国家的象徴の『天』は、夜が明けると同時に、実質的支配者であるところの『日』にすべてを『委ねん』と言うのです。言ってみてば、今の天皇と総理大臣との関係に通じています。
 では、この国家形態は、いつ誕生したのでしょう。
 先の後漢書でも検証しましたが、西暦190年頃に卑弥呼が女王として『共立』されています。この時に、この国家的象徴の『天』が誕生したものと考えられます。
 ところが、隋の皇帝は、その国家形態に道理が無いとして、訓令でもって改めさせたとあります。また、倭国の官位は、『徳、仁、義、禮、智、信』とあり、それぞれに大小があるので、12階ということになります。つまり、官位12階という形態を600年に隋に行った使者が紹介しています。
   
大業三年、其王多利思北孤遣使朝貢。使者曰:「聞海西菩薩天子重興佛法、故遣朝拜。兼沙門數十人來學佛法。」其國書曰「日出處天子致書日没處天子無恙」云云。帝覧之不悦、謂鴻臚卿曰:「蠻夷書有無禮者、勿復以聞。

 大業3年(607年)、その倭王は、隋に再び使者を送ります。
 先に送った使者が、倭国の国家体制について述べたことに対し、隋の皇帝は、訓令で以って改めろと命令を下しています。南海の孤島の国だとは言え、190年頃から400年以上の歴史を持つ国に対し、いくら大陸の王朝だと言っても、そんな生まれたばかりの国から老舗の国の体制に対して指図される謂れはないと考えたのかもしれません。
 それに対する回答が、この国書であるとも言えます。使者が届けたその国書には、「日出ずる處の天子、書を日没する處の天子に致す。恙無きや云云」とありました。
 大業3年と言えば、第2代皇帝煬帝が即位したばかりです。その即位の祝賀といった使者に携えられた国書は、煬帝に対し、『あなたが天子なら、私も天子だ、よろしく』といった、対等の意思表示をした内容となっています。大陸の王朝にあっては、天子はこの世で一人であるはずが、事もあろうに、倭王が天子を名乗っているのですから、怒り心頭といったところだったのでしょう。
 さらに、隋の皇帝は、日が没するところの天子だとしています。彼らにとって日、太陽は、神をも意味します。それが没することは、隋王朝の没落をも意味しています。ですから、隋王朝は、「蠻夷の書無禮なる者有り。復た以って聞するなかれ」と激怒してしまいます。

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