(6) 隋書に描かれた邪馬台国
唐の時代、636年、魏徴らにより隋書が作成されています。
そこには、今まで以上に興味深い資料が盛り込まれています。
夷人不知里數、 但計以日。其國境東西五月行、南北三月行、各至於海。其地勢 東高西下。都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。
今までの史書には、倭人としかなかったのですが、夷人という表現が出てきました。そして、その夷人は里数を知らず、日でもって計っているとあります。つまり、それだけ広範囲での移動をしていたということなのでしょう。今までは、倭人としていましたから、在来の民族とは違う民族だといった認識があったとも考えられます。夷人とは、渡来人といった意味もあります。
また、倭国の境界は、東西が5ヶ月、南北が3ヶ月行く程の広さだとしています。そして、東西南北それぞれが海に至るともあります。東が高くて西は低いとありますから、東は関東地方から西は九州地方までをその勢力下にしていたと考えられます。
その都は、邪靡堆、つまり邪馬臺であると述べています。さらに、その邪馬臺は、魏書にも登場しているとしています。すなわち、魏書の時代と都は同じだということにもなります。そして、魏書には「邪馬臺」、つまり『邪馬台(臺)国』について記載されているとも述べています。しかし、先に検証した魏書のどこにも都を意味する「邪馬臺」といった表現は出てきませんでした。ですから、『所謂』としているようです。魏書には、直接的ではなく、都であるところの『邪馬臺』を意味することが描かれているとしています。
では、魏書の何処が、その『邪馬臺』の記述に相当するのでしょうか。これまでの史書では、卑弥呼は、あくまで女王国の卑弥呼であって、『邪馬臺』にいる王だという表現はどこにも出てきませんでした。唯一、後漢書に『大倭王』の居するところの『邪馬臺国』という記述がありました。そして、その『大倭王』は、倭の5王でもありました。
この隋書の記述からしますと、魏書には、大倭王の居する都であるところの『邪馬臺』が描かれていたことになります。魏書において、本当に、『大倭王』や『邪馬臺』が登場していたのでしょうか。
では、魏書を、もう一度振り返ってみましょう。
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