邪馬台国検証

(28) 唐王朝が滅ぼされ、日本に逃避してくる
 この日本を植民地支配下にした唐王朝ですが、その本国唐において、その圧制への反発で各地で反乱が起こります。黄巣の乱(875~884)で長安は陥落、穀倉地帯は壊滅し、江南地方は荒廃してしまいます。
 それでも、唐王朝は反乱軍を寝返らせるなどの工作で反乱を一時沈めます。
 その黄巣の乱を鎮圧した功績で、節度使朱全忠が、901年梁王となります。
 しかし、梁王朱全忠は、門閥貴族など唐王朝の残党を残らず一掃し、907年、ついに、唐王朝を滅ぼしました。
 唐王朝貴族は、各地で惨殺され、長安でも黄河に放り込まれるなど、徹底した殺戮の憂き目に会い、大陸から貴族勢力は一掃され消滅します。それは、散々民衆を虐げ収奪してきたことによるもので、自業自得と言う他はありません。
 そして、唐王朝貴族の一部は、その反乱による殺戮の手を掻い潜り、この列島にまで逃れてきていました。
 その時に、奪われないようにと、この列島に持ち込んだのが、東大寺正倉院に保管されている膨大な宝物です。そのすぐ側にある聖護蔵にも、隋・唐代の経巻がおよそ5千巻も残されています。
 そして、この列島に逃避してきた唐王朝貴族ですが、大陸から散々蔑視していたこの列島に身を置くことになるわけですから、次は自らが自らを蔑視することになってしまいます。そんなことに耐えられるはずもありません。そうなると、この列島の蔑視されていた歴史を消し去り、天にまで持ち上げるしかありません。
 ここに、彼らによって、また新たな歴史改ざんが繰り広げられることになりました。
 それが、新唐書に残されています。
 

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