(25) 劉仁軌が「一国」を認識

十月,庚辰,檢校熊津都督劉仁軌上言:「臣伏覩所存戍兵,疲羸者多,勇健者少,衣服貧敝,唯思西歸,無心展効。臣問以『往在海西,見百姓人人應募,爭欲從軍,或請自辦衣糧,謂之「義征」,何爲今日士卒如此?』咸言:『今日官府與曩時不同,人心亦殊。
曩時東西征役,身沒王事,並蒙敕使弔祭,追贈官爵,或以死者官爵回授之弟,凡渡遼海者,皆賜勳一轉。自顯慶五年以來,征人屢經渡海,官不記録,其死者亦無人誰何。州縣毎發百姓爲兵,其壯而富者,行錢參逐,皆亡匿得免;貧者身雖老弱,被發即行。


 劉仁軌は、664年10月に一時帰国し、皇帝に上言しています。
 『現地の守備兵は疲弊したり負傷した者が多く、勇健な兵は少く、衣服は貧しくくたびれ、ただ帰国することばかり考えており、戦意がありません』と報告しています。
 つまり、大きな戦闘は終わり、征服した後の占領支配を続けているということが分かります。そして、『かつて、百姓は、自ら募兵し、先を争うように従軍しているのを見たものだ。それなのに、今の兵士はどうしてこうなったのか?』と仁軌が尋ねると、ある兵士は『今までと官府が変わってしまいましたし、人心もまた異なります。かつての東西の征役で戦死しますと、厚遇され、凡そ遼海を渡る者は、皆、勲一轉を賜ったものです。ですが顕慶五年以来、征人は屡々海を渡るのに官は記録しません。戦死しても、誰が死んだのか聞かれもしません。州県が百姓を徴発するたびに、壮にして富める者は銭を渡して誤魔化し合い、皆、免れてしまい、貧しい者は老人でも連行されてしまうのです』と答えています。
 顕慶五年とは、西暦660年、武則天が皇帝を『天皇』という名称に変えたり新羅の進言で百済を攻撃するなど、武則天がその支配権力を強めていくちょうどその年に当たります。

臣又問:『曩日士卒留鎭五年,尚得支濟,今爾等始經一年,何爲
如此單露?』


 続いて劉仁軌は、その兵士に問いかけています。
 『往年の士卒は鎮に五年留まったが、今の汝等は赴任して一年しか経っていない。それなのに、なんでそんなにくたびれた有様なのだ?』とも問いかけています。
 つまり、664年10月の1年前にこの列島も征服されていることになります。
 さらに、仁軌は、重要なことを述べています。

陛下留兵海外,欲殄滅高麗。百濟、高麗,舊相黨援,倭人雖遠,
亦共爲影響,若無鎭兵,還成一國。今既資戍守,又置屯田,所
藉士卒同心同德,而衆有此議,何望成功!自非有所更張,厚
加慰勞,明賞重罰以起士心,若止如今日以前處置,恐師衆疲老,
立效無日。


 劉仁軌は、この列島のことについて次のように述べています。
 『陛下が兵を海外に留めているのは、高句麗を滅ぼすためです。百済と高句麗は昔からの同盟国で、倭人も遠方とはいえ共に影響し合っています。もしも守備兵を配置しなければ、ここは元の「一国に戻ってしまいます』
 百済やこの列島に兵を留めているのは、高句麗征服のためだと言っています。
 そして、倭人も百済や高句麗と関係が深いので、引き続き守備兵を配置しなければ、元の『一国』に戻ってしまうと述べています。
 魏志倭人伝のところで、卑弥呼の女王国の国名が『邪馬壹国』とありました。
 この国名が、現在、わが国において『邪馬台国』と解釈されていますが、『壹』は、『一』を意味する文字でしかなく、そして、九州の卑弥呼の勢力である『一国』と、出雲の勢力、つまり『大国』と統一王朝を築くことで、国家的象徴である『天』が誕生したといったことは、すでに述べたところです。
 その統一王朝の実質的支配者だった出雲王朝『大国』を、唐王朝は殲滅し、国家的象徴の『天』をその支配下にしました。
 この仁軌は、そのことを述べているのです。
 唐の武将の口から、それを裏付ける証言がここで得られました。
 彼らは、この列島の実質的支配者であった『大国』、出雲の勢力は駆逐したが、そのままにしていたら、もう一方の『一国』に戻ってしまうだけだと、その認識を洩らしています。
 唐王朝は、この列島の歴史を改竄しましたが、はしなくも仁軌の口からその真実の歴史の一端が語られていました。
 やはり、卑弥呼のいた女王国の国名は、書き間違いでも、写し間違いでもなく『邪馬壹国』、『壹』、『一』でなければいけなかったのです。
 さらに、『今、既に戍守を造り屯田を置きました。』とも述べています。兵士たちも、この列島を長期間支配するとなると、生活していかなければなりません。そのためには、田畑で食料を生産しなければなりません。ですから、彼らは、ただ征服しただけでなく、この列島にいつまでも居座っていたということも述べてもいます。
 仁軌は、高句麗征服に向けて、士卒と心を一つにしなければ成功しないと鼓舞してもいます。
 これは、皇帝に向けての言葉です。
 仁軌の並々ならぬ、高句麗征服の気迫に満ち溢れた言葉です。
 つまり、朝鮮半島やこの列島も含めた東アジア征服を企らみ、西アジアも支配下にし、大唐帝国を築いた武則天の忠実な兵士だったということなのでしょう。

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