(16) 国名「日本」誕生
至二十二年、又附新羅奉表、以通起居。日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本為名。或曰:倭國自惡其名不雅、改為日本。或云:日本舊小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中國疑焉。
出雲王朝は、貞観22年(648)に、また使者を送っています。今回は、新羅とともに行っているようですから、相当重視した使者だったと考えられます。
ここで、中国の史書において、初めて「日本」が登場します。その使者は、「日本国」の成り立ちに関する、重要な事柄を述べています。『日本国は、倭国の別種なり』とあります。今までの史書には、『倭国は、古の倭奴国なり』とありましたが、「日本国」は、それとは別の民族であるという認識を示しています。
また、倭国という名前が良くないので「日本」に改めたともあります。「倭国」というのは大陸の王朝から見た蔑称です。大陸に王朝が誕生して以来、蔑視されてきているこの列島に対する認識を改めよと、唐王朝に突きつけているとも言えます。
そして、「日本」と国名を改めた根拠が述べられています。「日本」とは、『日』の辺りにあったので「日本」としたとあります。隋書には、『天』をもって兄となし、『日』をもって弟となすとありました。それは、出雲大社の地にあった高層の神殿に君臨する国家的象徴である『天』と、東出雲の地に居た実質的支配者である『日』を意味していました。今で言う、皇居と中央官庁ひしめく永田町のような関係でもあります。
その実質的支配者『日』の地に、今で言う総理大臣に相当する大国主命がいました。その跡地が、今は「出雲国庁跡」とされていますが、その『日』の一番の中心地「大本」が、『日本』と呼ばれていました。
その出雲王朝の聖地とも言える『日』の大本に位置する熊野大社には、『日本火之出初之社(ひのもとひのでぞめのやしろ)』という名称が、秘かに伝えられていました。また、その南には、日野とか日南といった地名も今に残されています。その熊野大社には、スサノオ尊が祀られています。つまり、「日本(ひのもと)」という国名には、その『日』の勢力の始祖神である『スサノオ尊』への思いも込められているのかもしれません。
さらに、「日本」は、古くは小国だったが、倭国の地を併せたともあります。これは、宋書にあったことを意味しているようです。つまり、倭王武が、祖先は自ら甲冑を着て山野を駆け巡り、国内から朝鮮半島まで制圧していったと上表文にありました。
このように新生「日本(ひのもと)国」の歴史が紹介がされ、倭国などと蔑まれて呼ばれているが、これからは『日本国』と改めるようにと唐王朝に伝えています。これは隋の煬帝に送った国書と同様、大陸の王朝に対し、対等の姿勢を表明したということでもあります。
ですから、「日本」という国名には、隋や唐による属国的支配に対して、決して、屈することなく対等な関係を貫こうとした、この列島の人々の思いや歴史が込められています。
しかし、唐王朝は、にわかには受け入れられず、信用ならないと考えたようです。
また、国名を変えたという報告を648年に行ったとなると、倭国を「日本国」と改めたのはその直近だということになります。当時、国名を変えるほどの大きな改革があったということになります。
では、その頃の大きな改革といえば、645年の『大化の改新』です。つまり、『大化の改新』とは、出雲王朝が『日本』と改名した改革だったと考えられます。つまり、『大化』という年号は、出雲王朝『大国』を『日本(ひのもと)』という国名に『化』えたことを称えて付けられたと考えられます。
いずれにしても、大陸の王朝から呼ばれていた「倭国」に変わって「日本」という国名が誕生したのは、7世紀中ごろだったとなります。そして、「日本」とは、その時に考え出されたのではなく、始祖神『スサノオ尊』に由来し、古くから東出雲にあった地名でもありました。
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