(13) 卑弥呼の墓に至る
卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、
卑弥呼が亡くなり、大きな塚、つまりは墓が造られたとあります。
女王国「邪馬壹国」は、宮崎県の西都原に存在したことに至りました。そうしますと、ここにも記されているように、西都原には、それに相当する古墳があるのでしょうか。西都原台地には、古墳群があります。そこには、300基以上もの古墳のある全国有数の大古墳群です。そのうち、9割が円墳で、その中には、わが国最大の円墳があります。その円墳には、わずかに方墳部分がついているので帆立貝式古墳とも呼ばれていて、円墳部分の直径は、132メートルもあります。まさに、この列島の女王に相応しい墓です。
しかし、現地では、そういった認識はなく、男狭穂塚(おさほづか)古墳と呼ばれています。そのすぐ横には、寄り添うようにして、これまた九州最大の前方後円墳があり、こちらは女狭穂塚(めさほづか)古墳と呼ばれています。この男狭穂塚古墳こそが、卑弥呼の墓に相当すると考えられます。
さて、ここで最初に疑問となるのは、女王に相応しいとは言え、直径が百余歩とありますから、そうなりますと、1歩が1メートル以上になってしまいます。いくら大股だったとしても、1メートル以上は少々無理があります。そこで、調べてみますと、魏国の度量基準では、基準となる足を左右どちらかに決め、その足の歩数で計測していたことが分かりました。つまり、今で言う2歩が、この魏書における1歩ということになります。大人の1歩がおよそ60pあまりといったところですから、当時の1歩が120数cmです。まさしく、その男狭穂塚古墳は、百余歩で、ぴったりと合います。
卑弥呼が居たのは、南九州でしかあり得ません。そのエリアの中で、大きな拠点があり、この記述に合う古墳は他には見当たりません。
この男狭穂塚古墳こそが、卑弥呼の墓だという認識に至りました。
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