663年、この列島は唐王朝に征服され、その後も引き続き占領支配されていくのですが、それは唐王朝本国にとってみれば、南海の島をその支配下にしたといったことに過ぎませんでした。 唐王朝のテリトリーが広がった、あるいは本来自分のテリトリーと考えていたこの列島が、夷人であるところの出雲王朝に支配されてしまったので、それを取り返したとでも考えていたのかもしれません。
ですから、梁書や北史・南史では、出雲王朝である『大国』の支配を消し去り、卑弥呼の地をこの列島の都『邪馬臺国』と改竄して描いていました。それは、あくまでも大陸にいて、この列島を蔑視している唐王朝としての視点であります。
しかし、この列島に唐王朝貴族がやって来たということになると、また、その視点は大きく変わってきます。有史以来、大陸の王朝はこの列島を『倭人』の住む島として卑下してきていましたから、その島に身を置くということは、王朝貴族であるにもかかわらず、忌まわしい島に住む人間として、蔑まれることになってしまいます。
ただ、そんなことを考えていたのは、その唐王朝貴族自身でしかありません。
出雲王朝の勢力は、万葉集にこの列島の美しさを愛でて歌に残していることからすると、この列島やそこに住む人々を思う気持ちには大変な違いがあります。
大陸の王朝にあっては、人を5段階に分けるといった差別的な考え方が徹底されていました。それは、人の逝去にあっても同様です。天子であるところの皇帝の逝去は『崩』、諸侯は『薧』、大夫は『卒』、士は『不禄』、庶民や奴婢は『死』とされていました。
この列島の女王であった卑弥呼ですら、亡くなった時には、『卑彌呼以死』と奴隷並みの表現になっています。ましてや、この列島に住む人々は、東夷などと獣並にしか思われていません。
この列島に流れてきた王朝貴族たちにしてみれば、そのような島に住むなど到底耐えることのできないことだったのでしょう。ですから、何としても再び大陸へ戻りたいという執念と、この列島に追いやった大陸の人々に対する怨念は計り知れないものがあったのかもしれません。
しかし、それは、所詮、逆恨みというもので、自業自得でしかありません。ただ、極端に自己中心的な王朝貴族には、そんなことが理解できるはずもありません。
とりあえず、まずは、自らが住まいすることになったこの列島を、卑下される島から『高貴』な島へと装いを替えることにしたようです。さらなる歴史の改竄です。常に自らにとって都合の良いように歴史を造りかえるのが、彼らの基本です。
その装いも新たになったこの列島の『新しい歴史』が、『新唐書』に残されています。
旧唐書では、この列島に日本国の誕生した経緯を記していました。そこでは、出雲王朝が国名を日本と定めたのは、大陸の王朝から倭国などと蔑視され属国のごときの扱いを受けていたことがその大きな要因でした。
ところが、新唐書では、日の出る所に近いから日本という国名になったなどといった全くの架空の歴史となっています。そして、何よりも、この列島は、神武以来の天皇による支配下にあったなどという『歴史』が創作されています。『天御中主』に始まり、32世に至るまで筑紫城に王が居て、神武からは天皇と言うようになり、『大和州』にて統治するようになったとあります。これは、旧唐書にもなかったまさしく『新しい歴史』です。
このように、この列島の『歴史』は、その都度、都合良く変えられてきていることが分かります。
その唐王朝・藤原氏は、この列島にやっ来て、この列島の人々を獣のごとく虐げ、自らに都合の良い歴史を押し付けていました。
ところが、それだけでなく、この列島の人々は、彼らが再び唐王朝を再興するための大陸侵略の兵士として、その手先にまで利用されることになってしまいました。
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