第3代皇帝高宗李治とその皇后武則天は、いよいよこの列島の征服に着手します。それは、東夷などと獣のごとく周辺民族を蔑視していた唐王朝による、高句麗の征服を中心とした東アジア一帯をも制圧する『大唐帝国』構築の一環でもありました。
 それに向けて、この列島に対する視点は、単なる南方の孤島に住む倭人と卑下してきたところから、征服の対象へと変化しています。それは、梁書で示めされた視点がさらにエスカレートして『北史』と『南史』に描かれています。この両書は、659年、李延壽によって記されています。まさしく、列島征服を目前にして、李氏唐王朝が、この列島をどう見ていたのかが良く分かります。
 北史では、隋書にあったこの列島を記した記述を使い、その中に都合よく文章を入れてまったく趣旨の異なる内容に作り変えています。そして、梁書と同様の工作が施されています。さらに、この列島の倭王の言葉は、すべて消されています。
 南史は、宋書の記述を使っています。そして、同様に、その前後に都合の良い文章を挿入しています。
 北史・南史とも共通しているのは、梁書と同様、九州の卑弥呼の地に都『臺』があったとする改竄です。そして、梁書にもありましたが、南史でもその東北に『文身国』なる国を作り上げてもいます。『文身』、つまり刺青(いれずみ)をしている国があるとしています。それは、体に獣のような入れ墨があり、額には『三』の文字が入っていて、その大きさで身分が異なるとまで述べています。この記述は、おそらく魏書を参考にし、さらに都合よく改竄しているようです。いわゆる魏志倭人伝には、九州に住まいする『倭人』の風習を紹介しています。その中で、『倭人』は好んで潜水して魚介類を捕獲しており、そのため蛟竜、つまり『サメ』などの被害から身を守るため断髪や入れ墨をしているとあります。それが、風習、あるいは装飾のひとつにもなっていたようです。当時、体に入れ墨をするというのは、海人族として大魚・水禽から身を守るということによるものだったのです。
 ですから、騎馬民族である出雲の勢力は、漁に出かけるといったことはあっても水に潜るという漁がその中心にはあらず、ましてやサメなどから身を守るという必要もありませんし、裸になったり入れ墨をするといった必要性も風習も生じません。
 体に入れ墨をするというのは、九州以南の民族による風習だと考えられます。
 さらに、その国は豊かではあるが、賤しくてお客が行っても食べ物は出さないと、極めて卑下した描き方となっています。その上、国王にいたっては、その住まいは金銀や珍しい華麗な物で飾られていて、周囲には水銀が満ち溢れていて、その水銀の上を雨が流れているとまで記しています。
 つまり、『文身国』なる国の国民は物が豊富にあるにもかかわらずお客に食べ物も出さないケチなやつらで、国王にいたっては、金銀財宝にまみれ、あの貴重な水銀を豊富に持っているが雨ざらしにしているとんでもない放蕩な国王だと言っているのです。
 ここには、出雲の地にあったこの列島の都『やまと』をターゲットにしている唐王朝の思惑が、極めてあからさまに描かれています。
 今も全国に数ある『えびす神社』の総本社は、島根半島の東にある『美保神社』で、そこの神紋は、『三』です。
 また、この列島からは、丹波、つまり丹場、そして伊勢でも、水銀が産出されていました。それは、魏書にも記されていますが、かなりの産出量があったようです。伊勢では、江戸時代に至るまで採掘されていました。その水銀鉱脈を出雲王朝が支配していたので、それを唐王朝が狙っていたということを記しています。
 唐王朝は、朝鮮半島も制圧するのですが、高句麗を征服した後、すぐに兵を引き上げています。
 しかし、この列島では、その後も引き続き占領支配を継続しています。それは、この列島から産出される水銀が、その征服の動機のひとつだったからでしょう。遠い南海の孤島にまで、唐王朝が兵を送ってくるのですから、それも散々卑下してきた倭人の住む島にまでやって来るには、それ相当の『旨み』があったからだと考えられます。今で言えば、アメリカが遠い中東にまで兵を送り続けるのは、そこが石油を産出する地域だからこそです。
 当時、水銀と言えば今の石油にも相当する貴重な資源で、朱色の原料であったり、不老長寿の秘薬のように思われてもいました。そして、何よりも、金の加工には欠かす事のできない、唐にしてみれば喉から手が出るほど欲しくてたまらない鉱産物だったのです。その水銀を豊富に持っているにもかかわらず、雨ざらしにするようなとんでもない放蕩な王だと描いています。
 今でもそうですが、征服の対象は徹底して貶められます。桃太郎に登場する鬼のようなものです。侵略者は、まず侵略しようとする相手を必ず悪者に仕立て上げます。そして、そんなに悪いやつだから何をしてもいいのだとばかりに征服して強奪するのです。
 その手法は、今も昔も変わりません。中東にも東アジアにも鬼が作られています。石油を手に入れるため、あるいは大陸へ侵略するためにそこには悪者が必ず作られ、その悪者を退治するんだとばかりに侵略していくのです。
 この南史では、そういった侵略者の思惑が垣間見えるようです。
 こういったまともな歴史書などとは言えない『梁書』や『北史』・『南史』の歴史認識、あるいはその手法が今のわが国の歴史認識となっているのですから、わが国の成り立ちの歴史がいかにでたらめかが分かります。
 しかし、何故か、わが国の歴史家と言われる人たちから疑問の声があがることはないようです。
 今のわが国でも同様なことが行われていますが、この列島への侵略を目前に控えた当時の唐の
兵士たちには、この南史にあるようなことが『教育』されていたことでしょう。それは、唐王朝がターゲットとする国に住む人々を、平気で殺戮する『正義の英雄、桃太郎』にするためであります。唐王朝にとっては、無慈悲に人を殺戮する兵士こそが、『英雄』というわけです。
 当時の実質的支配者であった武則天は、わが子をも絞め殺すくらいですから、獣扱いをしている周辺民族など虫けらのごとくに惨殺されたことでしょう。
 では、その武則天の手先たちが、周辺諸国をどのように侵略していったのか検証してみましょう。
 



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唐王朝による列島征服の軌跡
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