謎を解くカギは中国の史書にあった 
南斎書

倭國、在帶方東南大海島中、漢末以來、立女王。土俗已見前史。建元元年、進新除使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓(慕韓)六國諸軍事、安東大將軍、倭王武號為鎮東大將軍。 
 倭国は、帯方郡の東南大海中に在り、漢末の時代以来女王を立てた。風俗は、前史に見える。
 健元元年(343)に、使持節、都督倭・任那・加羅・秦韓・(慕韓)六国諸軍事、安東大将軍に新たに進め、倭王の武の号を鎮東大将軍に叙した。

 
 南斉書は、6世紀前半に梁という国で作成されています。倭国についての記載は、短いですが今までの史書が簡潔にまとめられているとも言えます。
 また、倭王の武は、5王の中でもかなり傑出した大倭王と見なされていたようです。
 

梁 書

倭者、自云太伯之後。俗皆文身。去帶方萬二千餘里、大抵在會稽之東、相去絶遠。

 梁書は、唐の時代に書かれています。
 今までの史書は、漢書以来、冒頭に倭国の位置を記すところから始まっていました。ところが、この梁書では、まず倭人は、呉の太伯の末裔だと自ら言っているとあります。その位置よりも重視しているようですが、倭人が呉の末裔であるといったことは今までの史書には出てきませんでした。
 つまり、この列島には、北方騎馬民族など多くの民族がやってきていますが、そういった歴史を消し去り、中国王朝の勢力のテリトリーにあったとする、いわゆる、この列島は『単一民族』だといった認識を示しています。
 今でも、時折、わが国は『単一民族』だという認識が、意識的に流されていますが、そのルーツは、この梁書にあるとも言えます。
 それは、同時に、唐王朝の考え方、歴史認識でもあります。


從帶方至倭、循海水行、歴韓國、乍東乍南、七千餘里始度一海。海闊千餘里、名瀚海、至一支國。又度一海千餘里、名未盧國。又東南陸行五百里、至伊都國。又東南行百里、至奴國。又東行百里、至不彌國。又南水行二十日、至投馬國。又南水行十日、陸行一月日、至邪馬臺國、即倭王所居。

 唐代に入って、倭国に対する認識は、全く異なるものに変えられています。冒頭の『呉の太伯の後』というのもそうですが、その次に描かれている魏書にあった『邪馬壹国』への道のりについての記述も、大きく異なります。
 魏書にあっては、『到伊都国』とあったように、いわゆる当時の『大使館』といった、帯方郡の使者が常駐する『伊都国』へ到る行程でした。その『伊都国』から、周辺諸国や女王国が紹介されていました。
 ですから、周辺諸国を紹介する部分には、『又』は記載されていませんでした。
 ところが、この梁書では、『到伊都国』とあったものが、『至伊都国』とされ、その『伊都国』からの紹介だった記述が、それぞれに皆『又』が記載されています。つまり、周辺諸国の紹介ではなく、その諸国を経て女王国へ行く道順にされてしまいました。
 さらに、魏書では、女王国の国名が『邪馬壹国』とあったのに、『邪馬臺國』となっているのです。
 その上、そこは、女王の国のはずなのですが、倭王の居する国とされています。魏書においては、女王国とあり、決して倭王のいる『邪馬臺國』ではありませんでした。
 それは、後漢書でも、『女王国』と『邪馬臺國』とは、異なる国として描かれていました。
 どういうことなんでしょう。よく言われるように、『壹と臺』の書き間違いなのでしょうか。しかし、その次に倭王の居する所とありますから、間違いなく王のいる『臺』と認識しているようです。
 今までの史書には、女王国を『臺』とする考え方はありませんでした。女王国は、あくまで女王国でした。
 ここでは、2つのことが考えられます。
 一つは、過去の史書の不勉強による勘違い。これは、今でもよく見かけますが、魏志倭人伝の記述を詳細にわたって分析ができていない為に、おそらくこうだろうといった罪の無い誤解から生じている場合です。ですから、それらの紹介されている国々をすべて経てしまいますと、とんでもない場所へ到達することになってしまいます。
 そして、この梁書ではいわゆる『邪馬台国』への道順とされていますから、『邪馬台国はどこにあったのだろう』、『分からない』、『どこだろう』ということにしかなりません。本来、『邪馬台国』でもない『邪馬壹国』を『邪馬臺國』、つまり『邪馬台国だと見なし』、その上、全く異なる道順に描かれているのですから、永遠にたどり着けるはずもありません。
 もう一つは、明確な意思で以って『歴史の改竄』をしたということです。隋王朝や唐王朝は、鮮卑族の流れにあります。北東アジアにいた『東胡』が匈奴に滅ぼされた時、『烏丸』と『鮮卑』に別れます。そうなりますと、唐王朝は、鮮卑でもあり東胡でもあります。
 一方、出雲王朝、スサノオ尊の勢力は匈奴の流れにあります。また、後に、鮮卑も力を大きくし、匈奴を征服しています。
 ですから、隋や唐王朝と、この列島の出雲王朝との間には、根深い民族的対立があったようです。隋の煬帝は3回も高句麗遠征に出かけます。唐王朝も、執拗に高句麗征服を行っています。その高句麗の地は、いわゆる満州で、東胡の流れを汲む勢力にとっては、民族の故郷とも言えます。
 唐王朝の対応は一貫しています。この列島の歴史から、出雲王朝の歴史を消し去ろうというものです。
 梁書では、そういった視点が貫かれています。 


至魏景初三、公孫淵誅 後卑彌呼始遺使朝貢、魏以爲親魏王、假金印紫綬。正始中、卑彌呼死、更立男王、國中不服、更相誅殺、復立卑彌呼宗女臺與爲王、其後復立男王、並受中國爵命。晋安帝時、有倭王賛。
賛死、立弟彌。彌死、立子濟。濟死、立子興。 興死立弟武。齊建元中、除武持節、督倭新羅任那伽羅秦韓慕韓六國諸軍事、鎭東大將軍。高祖即位、進武號征東(大) 將軍。其南有侏儒國、人長三四尺、又南黒齒國、裸國、去倭四千餘里、船行可一年至。

 
 魏書において、卑弥呼の使者が朝貢したのは、景初2年の6月のことでした。その12月に使者は様々な品々と合わせて金印や銅鏡を授かって帰国したとありました。
 ところが、ここでは、景初3年となっています。今まで検証してきたように、景初2年か3年かということは極めて大きな問題を含んでいます。今のわが国で『景初2年』に行った卑弥呼の使者を『景初3年』だと改竄するルーツは、実はここにありました。
 唐王朝による、この列島の歴史から出雲王朝を抹殺するための、歴史の改竄だったのです。
 ですから、ここでは、正始元年に魏が倭王に使者を送ったことを抹殺しています。
 同じように、卑弥呼が亡くなったことも記されていますが、魏書ではその次に女王となったのは壹與とありました。ところが、壹與が臺與と名前すら変えられています。
 『邪馬壹国』を『邪馬臺國』と、『壹與』を『臺與』と、明らかに『壹を臺に変えようとする意思』があったということになります。
 この列島では、その後、武帝を始め、倭の5王と言われる大倭王が大きな勢力を持ち、中国王朝と対峙するほどになります。ところが、ここでは、そういった歴史を消し去り、中国の支配下にあったとする記述にしています。続けて読むと、まるで卑弥呼の女王国と倭の5王とは同じ系統の王だということになってしまいます。つまり、倭の5王や隋書に出てきた王は、卑弥呼の末裔となってしまいます。
 さらに、倭の5王の次に、卑弥呼の国の南にあった国々を紹介しています。そうなりますと、倭の5王は、卑弥呼の地に居たことになってしまいます。
 むしろ、出雲王朝を消し去り、自らの歴史に取り込もうとする意思が伺われます。唐王朝が、そういった『歴史認識』にあったということです。
 この歴史認識は、今にまで続くわが国の歴史認識として引き継がれています。
 古事記・日本書紀といった歴史の改竄も、この唐王朝の歴史認識に基づいています。
 大倭王の居た出雲の地は、消されてしまいましたが、では、その地はどうなってしまったのでしょう。
 それも、抜かりなく、ちゃんと代わりの国が用意されていました。


文身國、在倭國東北七千餘里。人體有文如獸、其額上有三文、文直者貴、文小者賤。土俗歡樂、物豊而賤、行客不齎 糧。有屋宇、無城郭。其王所居、飾以金銀珍麗。繞屋塹、廣一丈、實以水銀、雨則流于水銀之上。

 この梁書には、文身国なる国名が登場しています。
 冒頭に、倭は、帯方郡から1万2千里にあるとしています。つまり、西都原の地を認識していたことになります。そして、この文身国なる国は、その倭国の東北7千余里にあるとしています。
 では、宮崎県西都原から東北7千余里、つまり1里が50mでしたから、350kmにある場所はどこになるのでしょう。そこは、まさしく、出雲の地であります。この列島の都、『大倭』、『邪馬臺國』です。
 『臺與』は『とよ』と読まれていますから、『邪馬臺國』は、『やまと国』でもあります。
 そういった出雲王朝を意味するものを消し去り、そこに『文身国』なる国を創作しています。
 宍道湖で獲れる『シジミ貝』が、『ヤマトシジミ』と言われているのは、その名残なのでしょう。
 さて、その文身国では、全身に獣のような文、つまり、入れ墨をしているとあります。魏志倭人伝に、この列島の風俗を紹介する中で、海に潜って蛤や魚を捕獲する時に、サメなどから身を守るために、全身に入れ墨をしているとありました。そういった南方の民族の風習を、出雲の地にいる人々の風俗としています。出雲は製鉄の民族ですから、海に潜ることを主にしてはいません。ですから、全身に獣のような入れ墨などする必要性は出てきません。
 また、その額には、『三』という文字を入れているともあります。『三』は、出雲の象徴です。島根半島の東端には、全国の『えびす神社』の総本社の美保神社がありますが、そこの神紋は『三』です。
 さらに、その国の人々は豊かだが、賎しいのでお客があっても食べ物を出してもてなすといったことをしないとも述べています。あるいは、その王に至っては、金銀財宝に彩られており、家の周囲には水銀が雨ざらしになっているとしています。
 この一連の記述は、極めて恣意的な表現に満ち溢れています。獣のような入れ墨をした賎しい人間がいて、その王は放蕩三昧だとしています。つまり、散々悪者に仕立て上げようとしています。
 背景には、民族的な対立があるのかもしれませんが、それだけでもなさそうです。当時、水銀は、今の石油に相当する貴重な資源でした。唐王朝は、それに食指が伸びていたようです。
 つまり、この列島から豊富に産出されていた水銀鉱脈を手に入れようとしていたのです。それを奪うために、それを手中にしていた出雲王朝を悪者に仕立て上げたと考えられます。
 ようは、桃太郎のお話です。今でもそうですが、ある勢力や国を執拗に貶めようとするのは、そこにはそれなりの目論見があるからです。何らかのターゲットにしているからこそ、悪者に仕立て上げようとするのです。
 今もわが国では、こういった手法が横行していますが、それは、この唐王朝に由来しているとも言えます。



晋 書

倭人在帶方東南大海中、依山島爲國、地多山林、無良田、食海物。舊有百餘小國相接、至魏時、有三十國通好。戸有七 萬。男子無大小悉黥面文身。自謂太伯之後

 晋書も唐代に記されています。
 主に、魏志にあったような風俗が書かれていますが、やはり、自ら太伯の後と言っているとあります。
 つまり、倭人は、呉の末裔だと言っています。確かに広島県に呉市があるように呉からも人は来ているのかもしれません。しかし、、それ以外の諸国や地域からも数多くの民族が、この列島にはやって来ています。
 ここでも、『単一民族』を、強調しています。



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