私はこうして『邪馬台国』に到達した!

(20)万葉集に詠われていた『邪馬台国』 

1)『やまとの炎上』を詠い残した人麻呂
  この列島が、唐王朝によって占領征服されたということが認識できますと、そういう視点で万葉集の歌も検証できるようになりました。すると、今まで、疑問だった解釈や、何を意味しているのか分からなかった歌が、理解できるようにもなりました。
 その中でも、衝撃的だったのが、人麻呂の歌です。
 東の 野にかぎろひの 立つ見えて かへり見すれば 月かたぶきぬ (1-48)
 『かぎろひ』なる現象についての研究もされていますが、原文では、単に『炎』という文字です。つまり、火の手が上がっている光景を人麻呂が目にして、それを歌に残していたのです。しかし、少々の火が燃えていることを歌には残しません。また、単なる火事に興味を抱いて歌にしているとも思えません。何らかの意味を持ち、かつ人麻呂の心に衝撃が走るような「火の手」を目にし、一方、西には月が傾くというところに、何かが沈むことをそこに重ねているように感じました。
 そういったところから至る結論として、人麻呂は、唐王朝によって出雲王朝が滅ぼされる、その瞬間を、歌に残したのではないかという所に行き着きました。
 それは、この列島の都『やまと』の炎上です。唐王朝によって、焼き討ちされ、あちこちから火の手が上がるのを恐怖に慄きながら見て、この歌を残したのでしょう。
 日暮れとともに南中し、夜半に西に傾く月は、「上弦の月」です。つまり、旧暦で言えば、8~10日頃の月に相当します。その月は、旧暦の10月10日の夜、稲佐の浜で行なわれる「神迎え祭」の時の月でもあります。おそらく、人麻呂は、超高層の神殿の上から、その光景や月を目にしていたと思われます。
 すべてが、つながってきました。中国に残されていた「資治通鑑」にある663年10月にこの列島が占領・征服されていたという記述、そして、人麻呂の残した第48首の歌や、出雲に伝わる「神迎え祭」と「神在り祭」など、それらは、すべて、唐王朝によって出雲王朝が滅ぼされていたという点で結びつきました。
 それに止まりません。今に至るわが国の不可解な歴史や遺跡の数々、また古事記や日本書紀、万葉集などにまつわる数多くの疑問は、すべてそこに起因するものでした。
   
2)晩年に、また出雲に戻る

 人麻呂は、その後、唐王朝の戦略に基づき、奈良で新たに築かれた都「大和」に移り住むことになります。出雲の地にあった都「やまと」は、すべてが消し去られ、あたかも奈良の地が古来からの都だったかのような歴史が捏造されました。さらに、各地から寺院の建物も移築され、そこにはこの列島の新しい「古都」が誕生したのです。建物だけではありません。「やまと」、「吉野」、「近江(淡海)」など、地名までも出雲の地から奪われ、近畿にあった地名かのように捏造されてしまいました。九州からも移された地名もあったことでしょう。
 そして、人麻呂は、聖武天皇という政治的な役割も終え、ふたたび出雲の地に戻ります。その時に目にした、滅ぼされた出雲王朝の都「やまと」のあまりにも荒れ果てた姿に、愕然とし、失意の中でその思いを歌に残しています。
 近江の海 夕波千鳥 汝(な)が鳴けば 心もしのに 古(いにしへ)思ほゆ (3-266)
 この歌も琵琶湖で詠まれたことになっていますが、出雲の歴史が紐解かれたことで、理解することができました。
 人麻呂が久しぶりに戻った旧都「やまと」のあった出雲の地には、栄華を誇った過去の姿はどこにもありませんでした。そして、人麻呂は、今で言うところの宍道湖のほとりに佇んで、その悲しみを歌に残しました。
 そういった歌は、他にもいくつか残されていました。
 高照らす 我が日の皇子の いましせば 島の御門は 荒れずあらましを (2-173)
 
出雲大社の地にあった巨大神殿や御門が、今は荒れ果ててしまっていて、出雲王朝が健在でその国家的象徴だった「日の皇子」が居たら、こんなことにはなっていないのにと嘆いています。
 ひさかたの 天の香具山 この夕(ゆふへ) 霞たなびく 春立つらしも (10-1812)
 その御門の近くにあった「天の香具山」も懐かしく眺めていたようです。
 こうして、少年の頃に出雲の地から奈良に移った人麻呂は、古老になってから故郷に帰ります。
 しかし、その地は唐王朝によって建物は焼き尽くされ、そこに居た人々は抹殺され、あるいは遠く津軽(東日流)の地に逃亡していました。幼き頃の故郷の記憶は忘れることなく思い出されても、家並みは全く異なり、そこに住む人々は縁もゆかりも無い人たちばかりだったのでしょう。人麻呂は、その思いを「浦島子」の話として残しています。つまり、浦島太郎というお話は、人麻呂の実体験を伝えているものでした。
 
3)万葉集の編纂に取り掛かる
 人麻呂は、この列島に栄えた出雲王朝の歴史が消されていこうとしている中で、何としてもその歴史を残さなければいけないと、万葉集の編纂にとりかかっています。その思いも歌に残しています。
 高照らす 我が日の皇子の 万代(よろづよ)に 国知らさまし 嶋の宮はも(2-171)
 出雲大社の地にあった御門、そこに高く聳え立っていた超高層神殿に君臨していた「日の皇子」、つまり、出雲王朝の歴史を、万代に伝え残さなければいけないと、人麻呂はその決意を固めます。それこそが、万葉集編纂の動機となっています。そして、それは同時に、万葉集の編纂者は、この人麻呂だったということにもなります。
 
4)出雲王朝のラストエンペラー・・・人麻呂
 出雲王朝は唐王朝に滅ぼされ、歴史をも簒奪され、人麻呂が引き継いでいた宝物も奪われ東大寺に「献上」したことにされてしまいました。東大寺とは、唐大寺をも意味しています。
 その人麻呂が、必死の思いで残した万葉集も、後に、全く異なる解釈がされていくことになるのです。それは、記紀認識にもとづくわが国の歴史の改竄と同様です。
 出雲の歴史を紐解くことにより、自らの歌とともに、出雲王朝に伝えられていた「やまと歌」を人麻呂が編纂したことも見えてきました。
 これらから、人麻呂こそが、出雲王朝のラストエンペラーだったということにも行き着きました。そして、その偉大なる人麻呂も、万葉集に最終歌を残して、波乱万丈の人生を終えました。出雲王朝が自分の代で消えてしまうという屈辱と悲痛な思いでいっぱいだったことでしょう。その人麻呂が後の人たちに伝えたいという思いに満ち満ちている万葉集は、出雲王朝の歴史の縮図でもあります。
 そこには、映像のごとくに、その風景が描かれ、あるいは、人麻呂だけでなく、多くの人々の思いも綴られています。それは、出雲の地にあった都「やまと」の姿であり、まさに、それこそが「邪馬台国」の姿を今に伝えるものに他なりません。邪馬台国は、近畿でも九州でもなく、あるいは「まぼろし」でもなく、出雲の地にあって、その姿は万葉集にしっかりと詠い残されていたのです。
 その後、この列島の人々には、唐王朝の勢力によって、彼らにとって都合よく改竄され捏造された歴史で洗脳教育させられることになってしまいました。その基本的視点は、今も変わりません。  ほとんどの国民のみなさんは、洗脳されていることも都合よく騙されていることすらも気づいていません。騙されていることに気づいていないからこそ、騙され続けるとも言えます。




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