(7) 魏志倭人伝に描かれていた邪馬台国の大倭王
 魏志倭人伝・後漢書・宋書を検証する中で、「邪馬台国の女王卑弥呼」という認識は存在していないということが分かりました。そして、「邪馬台(臺)」とは、この列島の大倭王が君臨する都であることも分かりました。つまり、当時、この列島には、大倭王と女王という2つの勢力が存在していたことにもなります。ところが、隋書には、その大倭王が君臨する都「邪馬臺」の姿が魏志倭人伝に描かれているとしています。

景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻、太守劉夏遣吏將送詣京都。其年十二月、詔書報倭女王曰: 「制詔親魏倭王卑彌呼:帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米、次使都市牛利奉汝所獻男生口四人、女生口六人、班布二匹 二丈、以到。汝所在踰遠、乃遣使貢獻、是汝之忠孝、我甚哀汝。今以汝爲親魏倭王、假金印紫綬、裝封付帶方太守假授汝。

 魏志倭人伝では、卑弥呼が、景初2年(西暦238年)に魏へ使者を派遣したことが描かれています。
 6月に帯方郡へ行き、郡の使いとともに魏の明帝に朝貢しています。それに対し、明帝は、その年の12月に、詔書と金印をはじめ多くの品々を授けています。その詔書で、明帝は、卑弥呼に対し、遠方にもかかわらず使者を送ってきたのは、汝の忠孝の表れで甚だ哀れんだとしています。つまり、称えています。そして、金印紫綬を授け、装封して帯方郡の太守が卑弥呼に授けるとあります。

又特賜汝紺地句文錦三匹、細班華罽五張、白絹五十匹、金八兩、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠、鉛丹各五十斤,皆裝封付難升米、牛利還到録受。悉可以示汝國中人,使知國家哀汝,故鄭重賜汝好物也。

 また卑弥呼には、絹、金、銅鏡100枚、真珠、水銀などなど、金銀財宝といった数多くの品々が授けられ、「使者が帰ってきたら、目録と照らし合わせ、それらを国中の人に示し て、魏が卑弥呼に好意を持っていると知らしめなさい。だから、魏は鄭重に好物を授けるのである」といったことが、明帝からの詔書で述べられています。
 当時、三国時代にあって、魏の明帝が、この列島を戦略的に重視していたことがうかがわれます。

正始元年、太守弓遵遣建中校尉梯雋等奉詔書印綬詣倭國、拜假倭王、并齎詔賜金、帛、錦罽、刀、鏡、采物、倭王因使上表答謝恩詔。其四年、倭王復遣使大夫伊聲耆、掖邪狗等八人、上獻生口、倭錦、絳青縑、緜衣、帛布、丹、木弣(弣に改字)、短弓矢。掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬。  

 卑弥呼が景初2年(238年)に使者を送ったその2年後、正始元年に、魏は、倭王に使者を派遣し詔書や印綬等を届けたとしています。この部分こそが、隋書に記された『邪馬臺』の大倭王の姿でした。つまり、倭王と倭女王という2つの勢力が存在していたことを、この魏志倭人伝も記していました。
 元号が景初から正始に変わっているように、卑弥呼の使者が帰国した翌年、正月元日早々に明帝は亡くなっています。その景初3年(239年)、魏は喪に服し、その喪が開けた翌年正始元年(240年)に、魏は、倭王へ使者を派遣しています。魏の使者が、わざわざ倭王の所まで出向いています。そして、倭王の所に出向くことを『詣』、詔書や印綬を渡すことを『奉』と表現しているのです。『詣』とは、『臺』、つまり皇帝の居する都を訪れる時に使う表現でもあります。さらに、詔書や印綬を『奉』じるとしています。他には見られない献上するという視点がそこには見られます。
 先にあった卑弥呼に対しては、『汝』、『哀』など、見下ろす表現をしています。あくまで、魏が下賜するという視点です。ところが、倭王に対しては、『詣』、『奉』、『拝』と仰ぎ見る視点となっています。当時、この列島を支配下にしていた大倭王に対し、敬意を表しているようです。
 明帝が亡くなり、次の皇帝斉王は、8才の幼少だったので後見人がついていました。そういった非常事態にあって、周辺諸国から攻められては不利になってしまいます。ですから、この列島の強力な大倭王を味方に付けておこうという思惑があったのかもしれません。
 そして、正始4年、倭王は、答礼の使者を魏へ送っています。
 この「倭王」こそが、隋書で言うところの、魏書に描かれている『邪馬臺』の王でした。その倭王が、倭の5王と続き、隋の時代にまで、その都に「倭王」は君臨していたということになります。
 その倭王の居た地こそが、この列島の都であり『邪馬台(臺)国」ということでもあります。

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