邪馬台国検証

(29) 歴史を全て作り替える・・・新唐書
 魏志倭人伝、後漢書、宋書、隋書の検証から邪馬台国に至ることができました。それゆえ、唐王朝は、梁書や北史・南史に於いて、邪馬台国であるところの出雲王朝の支配を消し去りました。この列島に倭王と倭女王が存在していたという歴史が、唐王朝によって、倭女王だけが存在していたと改ざんされました。
 そして、907年、唐王朝は滅ぼされ、この列島に逃避するしかありませんでした。その唐の歴史が、945年、後晋時代に作成されています。すると、そこには、唐王朝に屈することなく、毅然と対抗する出雲王朝の姿が鮮やかに描かれ、「日本」誕生のことまで記述されていました。この列島に潜む唐王朝の残党にしてみれば、消し去ったはずの出雲王朝の姿が唐書において蘇っているのですから驚いたことでしょう。
 ですから、彼らは、新たな歴史を創作するに至りました。しかし、それは、さらなる歴史の改ざんを意味し、自らが改ざん勢力であることの証拠を、永遠に消すことのできない史書として残すことでしかありませんでした。
 新唐書は、1060年、北宋の欧陽修らによってに成立しています。
 
日本、古倭奴也。

 先の旧唐書では「倭國者、古倭奴國也」とあり、さらに「日本國者、倭國之別種也」ともありました。つまり、古くからの倭国と日本国とは民族が異なるという認識でした。それは、古くは倭人であり、日本国は夷人で、後からやって来た渡来人だという意味でもあります。
 その民族が異なるという認識を消し去り、日本も元々の民族と同じだと書き換えています。あるいは、夷人は一掃したということなのかもしれません。

其王姓阿毎氏、自言初主號天御中主、至彦瀲、凡三十二世、皆以「尊」為號、居筑紫城。彦瀲子神武立、更以「天皇」為號、徙治大和州
 
 そして、官位が12等あるとか、その王の姓が阿毎氏だと、隋書に出てきた王のことを記しています。ところが、その王が自ら言うのには、初めの主は天御中主で、彦瀲に至るまで32世、皆『尊』を号として筑紫城に居むとあります。こういった歴史は、今まで検証してきた史書のどこにも出てきませんでした。
 その王と隋の使者は、邪馬臺であるところのこの列島の都に来た折に会談しました。その時会談した内容にこのようなことは記されていませんでした。『朝命は伝えたから塗を戒めよ』と使者の清が述べるくらいですから、決して和やかな会談だったとは思えません。隋とその王とは断絶状態になりましたから、それ以上の接点もありません。むしろ、唐は、北史でその会談の内容を削除したくらいです
 初めの主が天御中主で、彦瀲の子の神武が立ち、改めて「天皇」を号とし、大和州に移って統治するといった歴史は、古事記に登場します。唐王朝が、この日本を征服した後に創作した歴史認識です。その「新しい」歴史認識を、600年の出雲に居た邪馬台国の王が知る由もありません。
 唐王朝は、出雲王朝を滅ぼし、その出雲王朝の歴史を抹殺して自分たちに都合の良い歴史を作り上げるために記紀を作成しました。その唐王朝の傀儡国家が誕生した後に創作した記紀の内容を、自らが改ざんしたのではなく、自らが滅ぼした出雲の王が述べたなどと偽っているのですから、極めて悪質です。
 
次曰綏靖、次安寧、次懿德、次孝昭、次天安、次孝靈、次孝元、次開化、次崇神、次垂仁、次景行、次成務、次仲哀。仲哀死、以開化曾孫女神功為王。次應神、次仁德、次履中、次反正、次允恭、次安康、次雄略、次清寧、次顯宗、次仁賢、次武烈、次繼體、次安閑、次宣化、次欽明。

 この新唐書には、神武以来平安朝の頃までの天皇の名前が記されています。わが国では、これだけの天皇が続いていると述べているのですが、過去の史書には神武天皇を初めとしてどの天皇も誰一人として名前が登場していません。天皇なる者がいるということすらどこにも出てきませんでした。ところが、旧唐書にもまったく姿を現さなかった天皇の系図が、いきなり新唐書には出てくるのです。
 一方、今まで数多くの史書に登場してきた卑弥呼も、あるいは、「邪馬壹国」、「邪馬臺国」といった国名も新唐書には出てきません。
 そこにこそ「新しい」とされていることの意味があります。

欽明之十一年、直梁承聖元年。次海達。次用明、亦曰目多利思比孤、直隋開皇末、始與中國通。次崇峻。崇峻死、欽明之孫女雄古立。次舒明、次皇極。

 ここには、その実態が記されていると言えます。まず、欽明の11年が梁の承聖元年に相当すると述べています。つまり、記紀にあるところの年号を、中国王朝の年号とすり合わせもしていたということになります。そして、用命天皇が目多利思比孤だとしています。その用命天皇は、隋の開皇末に初めて中国と通じたというのです。
 このようにして、この列島の歴史が創作されていたことが分かります。
 つまり、創作された歴史の辻褄合わせをしていたと、ここでは述べています。この時に、大きな歴史の改竄が行われていたことを意味しています。

咸亨元年、遣使賀平高麗。後稍習夏音、惡倭名、更號日本。使者自言、國近日所出、以為名。或云日本乃小國、為倭所并、故冒其號。使者不以情、故疑焉。

 咸亨元年(670)に高句麗を平定したのを祝して使者が来たとあります。そして、旧唐書にあった日本国の紹介文がありますが、ここでも創作の跡が見られます
 まず、670年と言えば、663年に唐王朝に日本が占領され、まだ倭王が唐に抑留された状態にあります。さらに、日本国の紹介をしたのは、648年に行った使者です。
 では、その内容を検証してみましょう。
 日本という国名になったのは、隋や唐が「倭国」などとこの列島を蔑称で呼んだり、属国扱いするなということがその動機でした。そして、その国名の由来も、『以其國在日邊,故以日本為名』とありました。つまり、日のあたりにあったので日本という名前にしたということでした。ところが、ここでは、日の出る所に近いので日本という国名にしたとなっています。
 さらに、日本は小国で、倭に併合されたとなっていますが、これも全く違います。旧唐書に『日本舊小國、併倭國之地』とあったように、日本が倭国の地を併合していました。ここでも、宋書や旧唐書にあった記載などとまるっきり逆になっています。
 こうして見てきますと、唐王朝の時代にもこの列島の歴史が歪められていましたが、新唐書では、それまでの史書とは全く異質の記載になっています。数多く登場していた国の名前も消し去られ、天御中主から神武以来の天皇の支配のみがあったという内容になっています。卑弥呼すら消されているのです。それまで残されているこの列島の歴史とは異なる、全くのフィクションです。
 つまり、万世一系という記紀の歴史認識そのものによって新唐書の日本伝は記されています。
 では、なぜこのような歴史の改竄をしようとしたのか、その動機が問題となってきます。それは、907年に唐王朝が滅ぼされ、この列島に、その王朝貴族が流れ着いたことにあります。それまでの史書は、大陸の王朝から、この列島を見下す視点で描かれていました。ところが、その王朝貴族がこの列島にやって来たとなりますと、今まで散々卑下していた地に、今後は、自らが身を置くことになるのですから、逆に卑下される立場に陥ることになってしまいます。『超』が付くほどの自己中心的な彼らにとっては、そんなことに耐えられる訳がありません。ですから、この列島の歴史を太古の時代に遡ってまで、尊い歴史に仕立て上げなければならなくなりました。
 この新唐書に『卑弥呼』も『女王国』も『邪馬壹国』も『邪馬臺国』も登場しないのは、この列島が過去、そのような忌まわしい勢力によって支配されていたなどという歴史を、消し去りたかったということのようです。
 しかし、だからといってこの列島に住む人々に対する視点が変わるわけではありません。あくまで、彼らのこの列島に住む人々に対する視点は、獣並みの『倭人』でしかありません。
 大陸にいた唐王朝は、この列島の都があった出雲の地や、出雲王朝による支配を消すために、この列島の都を、西都原の卑弥呼の地にあったという最初の改竄を、梁書や北史・南史で行っていました。つまり、宮崎の地にこの列島の都があったということにしたのですが、彼らが、この列島にやって来て、奈良の地に古来より都があったということにしたために、全く辻褄が合わなくなってしまいます。その結果、その卑弥呼の地に都があったことも消そうとしますと、ますます整合性がなくなります。
 そこで、彼らは、都を筑紫にあったとし、それをさらに奈良の地に移すという改ざんをしたのです。そのために、『神武東征』という概念と手法が生まれています。
 我が国の歴史は、原形を留めないほどに異質のものに変えられてしまいました。
 1060 年に、『新唐書』が北宋の欧陽修によって編纂されていますが、同じく北宋において、1069年に司馬光が『資治通鑑』を編纂しています。その時、司馬光は、『新唐書』には誤認があるとして使用せず、『旧唐書』を採用しています。そういった改ざんが行われていることを知っていたようです。
 ところが、わが国ではその誤認があるとされた『新唐書』に残されている架空のフィクションが、今のわが国の基本的な歴史認識となっているのです。
 今でもそうですが、ことさら『新しい〇〇』と強調される時には、『新しいから良い』と思わせようとしているかもしれないと注意することが必要です。つまり、『新しい〇〇』といった場合、それは『新しく改竄した』といったことだったり、本当は全然新しくもない場合があります。
 それは、唐王朝・藤原氏の歴史的手法だとも言えます。彼らによって改竄され捏造された架空の『新しい歴史認識』が、この列島の人々に押し付けられたまま今に至っています。

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