邪馬台国検証

 (21) 隋書を変質させる・・・北史
 636年、隋書が魏徴によって作られています。魏徴は、第2代皇帝李世民に仕え、歯に衣を着せない気骨な人で、癇癪を起こす李世民を200回も諌めたともあります。そういったこともあり、李世民の時代は、貞観の治と言われるほどの善政だったと言われてもいます。魏徴が亡くなった時は、李世民は、大変嘆き悲しんでいます。その魏徴の実直さが隋書にも現れているようです。
 ところが、第3代李治の時代になり、その隋書の記述が大きく変質させられています。李延壽は、659年に北史・南史を完成させています。そこにおいては、唐王朝のこの列島に対する歴史認識が確立されています。

倭國在百濟新羅東南、水陸三千里、於大海中、依山島而居。魏時譯通中國三十餘國、皆稱子。夷人不知里數、但計以 日、其國境東西五月行、南北三月行、各至於海。其地勢東高西下、居於邪摩堆、則魏志所謂邪馬臺者也。又云、去樂 浪郡境及帯方郡、並一萬二千里、在會稽東、與tan[偏人旁右澹]耳相近。俗皆文身、自云太伯之後。計從帯方至倭國、 循海水行、歴朝鮮國、乍南乍東、七千餘里、始度一海、又南千餘里度一海、闊千餘里、名瀚海、至一支國。又度一海千餘里、名末盧國。又東南陸行五百里、至伊都國。又東南百里、至奴國。又東行百里、至不彌國。又南水行二十日、 至投馬國。又南水行十日、陸行一月、至邪馬臺國。即[イ妥]王所都。漢光武時、遣使入朝、自稱大夫。安 帝時又遣 朝貢、謂之[イ妥]奴國。靈帝光和中、其國亂、遞相攻伐、歴年無王。有女子名卑彌呼、能以鬼道惑衆、國人共立爲王。無夫有二男子、給王飲食、通傳言語。其王有宮室樓觀城柵、皆持兵守衛。爲法甚嚴。魏景初三年、公孫文懿誅後、卑彌呼、始遺使朝貢、魏主假金印紫綬。正始中、卑彌呼死、更立男王、國中不服、更相 誅殺、復立卑彌呼宗女臺與爲王、其後復立男王、並受中國爵命、江左歴晉宋齊梁、朝聘不絶、及陳平、至開皇二十年、 [イ妥]王姓阿毎、字多利思比孤、號阿輩[奚隹]彌、遣使詣闕。

 隋書には、この列島に関わる貴重な認識が述べられていました。この北史では、その隋書に記述されているこの列島に関わる部分を丸写しにしています。ほとんど隋書のパクリです。今の時代であれば、著作権の侵害で大きな問題になります。その上、梁書にあった今までと全く異なる認識を書き入れることで、本来の隋書とは全く異質のものにしてしまっています。極めて巧妙な改ざんです。
 上記の赤い字の部分が隋書の内容ですが、そこに青字の部分が挿入されています。本来『邪馬壹国』だったものが、『邪馬臺國』に変えられ、さらにとんでもない場所へ行くような意味不明の道順となっています。それは、梁書と同様に、出雲の地にあったこの列島の都『邪馬臺國』、つまり、出雲王朝の抹殺です。
 そこには、女王国であるところの『邪馬壹国』をこの列島の大倭王がいた『邪馬臺
國』にすり替えようという意思がはっきりと表れています。そのまま読めば、女王国が『邪馬臺國』だったということになってしまいます。
 その次に挿入されている青い字の部分も同じ考え方によるものです。
 景初2年に行った卑弥呼の使者を景初3年に行ったとし、隋書に登場していた倭王も、卑弥呼の系列の王という表現にしています。すべて、出雲の地やそこにいた倭王の存在を徹底して抹殺しています。この列島には、倭王と倭女王という2つの勢力があったことを、倭女王のみが存在していたという歴史に改竄しています。
 そして、梁書と同様に、次の女王も壹與が臺與とされてしまいました。
 梁書の視点で、隋書の内容を変質させています。

後十日,又遣大禮哥多?從二百餘騎,郊勞。既至彼都,其王與世清相見、大悦、曰:「我聞海西有大隋、禮義之國、故遣朝貢。我夷人、僻在海隅、不聞禮義、是以稽留境内、不即相見。今故清道飾館、以待大使、冀聞大國惟新之化。」清答曰:「皇帝徳並二儀、澤流四海、以王慕化、故遣行人 來此宣諭。」既而引清就館。其後清遣人謂其王曰:「朝命既達、請即戒塗。」於是設宴享以遣清、復令使者隨清來貢方物。此後遂絶。

 隋書を変質させる手法は、異なる趣旨の内容が書き加えられているだけではありません。ある一部分が、切り取られてもいます。それは、隋の使者清と倭王との会談の部分です。
 上記は隋書にあった使者が倭王の居る出雲の都「邪馬臺國」にやって来た部分ですが、この北史では黒字の部分が削り取られているのです。清の後から、次の清の字までを削っています。ここは、言ってみれば、隋書の一番の見せ所といった部分にあたります。他の史書にも、わが国のどんな資料にも、この列島の倭王の言葉など残されていません。出雲王朝、邪馬臺國の王の言葉が唯一残されている部分です。そこがすっぽりと切り取られているのです。
 そうなると、どういう意味になるのでしょう。隋の使者清が倭王のいる都に着くと、倭王は使者の清と共に貢物を持ってやってきたということになります。
 なんということでしょう、邪馬臺國の王が自ら朝貢してきたという意味になるのです。
 唐王朝は、出雲王朝の倭王の姿を消そうと、このような、辻褄の合わないような改竄までしているのです。
 
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