X、邪馬台国を消した唐王朝
 隋が滅んで唐になっても、この列島を属国のように扱う姿勢に変わりはありませんでした。
 それに対し、出雲王朝は、その支配下になどないと、唐に対しても屈することはありません。
 さらに、倭国などという蔑称はやめよと、「日本(ひのもと)」という国名に変えました。
 しかし、唐王朝は、それを受け入れず、むしろ不信を抱きます。南海の孤島の倭国が何を言うかといったことのようです。邪馬台国であるところの出雲王朝や、その新生「日本国」は、一体どうなったのでしょう。 

(17) 武則天が実権を掌握する
 唐王朝第2代皇帝李世民の時代は、『貞観の治』と言われるほどに善政が行われたと評されてもいます。しかし、第3代皇帝李治の時代になると、大きく治世が変貌していきます。
 649年、李治は、皇帝位に就くも病弱だったため、655年に皇后となった武則天が実質的支配者となります。
 武則天は、624年生まれで、幼名、あるいは本名を『武照』と言います。14歳で李世民の後宮に入ります。当初は、李世民の寵愛を受けますが、子どもができなかったので、李世民が亡くなると出家させられます。その後、李治は、蕭淑妃を寵愛するようになり、王皇后と蕭淑妃が対立するようになります。そのため、王皇后は、李治が蕭淑妃ばかりを溺愛しないようにと、武則天を後宮に戻しました。すると、李治は蕭淑妃からは離れますが、武則天を溺愛するようになり、娘が誕生します。子どもの居なかった王皇后は、李治の子どもが生まれたと、その子をかわいがります。
 ところが、皇后の座を狙う武則天は、その王皇后や蕭淑妃の抹殺を企てます。武則天は、わが娘を自らが絞め殺し、それを王皇后の仕業だとして、王皇后を皇后の座から蹴落とします。武則天は、自分が権力の座を仕留めるためには、わが子をさえも自らの手で抹殺するという残忍な手法を使っています。この時点で、武則天は人間性を喪失しています。李世民は、武則天を遠ざけていましたから、あるいはその本性を見抜いていたのかもしれません。しかし、李治は、4歳年上の武則天に心を奪われ、周囲の反対の声も聞かず、武則天を皇后にしてしまいます。
 とうとう、皇后になった武則天は、その王前皇后等を虐殺します。武則天は、王前皇后と蕭前淑妃を百叩きにした上に、四肢を切断して、「骨まで酔わせてやる」と言って酒壷に投げ込み、二人は酒壷の中で数日後に絶命してしまいます。蕭前淑妃は、『次は猫に生まれ変わり、鼠に生まれ変わった武則天を食い殺してやる』と呪いながら亡くなります。そのため、後年の武則天は宮中で猫を飼うのを禁じたとも言われています。
 こうして、まるで鬼畜かのごとく唐王朝の実権を握った武則天は、身内の武氏一族を重用します。しかし、冷酷非道に子や孫であろうと自らに反抗する者を容赦なく抹殺し、また密告により反対派を徹底して潰すなど、恐怖政治を横行させました。
 李治も、武則天を廃后しようとしましたが、逆にそれを武則天に知られるところとなり、李治ですら口出しできない武則天による垂簾政治、独裁体制が確立されることになりました。
 ですから、漢代の呂后、清代の西太后とともに『中国三大悪女』と称されてもいます。

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