(15) 隋から唐へ・・・『維新・政権交代』
 鮮卑族の流れにある楊堅により隋が建国され、589年全土を統一します。しかし、第2代煬帝は、江南との運河建設や3度にもわたる高句麗遠征の失敗で、隋は大混乱に陥ります。その混乱の中で、隋の武将でもあった李淵は、首都大興城を陥落させます。そして、煬帝を太上皇帝に奉り上げ、617年、煬帝の孫、恭帝侑を傀儡の皇帝に立て、隋の中央を掌握します。その翌年、江南にいた煬帝が近衛軍団に殺害されると、李淵は、恭帝から『禅譲』を受けて即位し、唐を建国しました。とは言え、隋も唐も同様に鮮卑族による貴族政治であって、その王朝の担い手が代わったに過ぎません。今で言う『維新・政権交代』のようなものです。政権担当者の装いが変わっても実質的な支配勢力には、何ら変わりはありません。
 この列島の倭王は、国家体制にまで命令をしてくる隋に対し、決して屈することなく、「貴方が天子なら私も天子だ」といった国書を煬帝に送りつけ、国交断絶に至りました。その隋が滅んで唐に変わり、とりあえず国情も落ち着いたと見たのでしょうか。倭王は、様子見といった使者を唐に派遣します。その成り行きが旧唐書に残されています。

貞觀五年、遣使獻方物。太宗矜其道遠、敕所司無令歳貢、又遣新州刺史高表仁持節往撫之。表仁無綏遠之才、與王子爭禮、不宣朝命而

 隋王朝とは、国交断絶といった状況に至りましたし、大陸の王朝との交流を望んでいたのかどうかは分かりませんが、出雲王朝の倭王は、貞観5年(631年)、第2代皇帝太宗李世民の時代に使者を送っています。
 ところが、太宗は、あまり友好関係を望んではいなかったのか、遠方だから来なくてよいと、わざわざ使者を送っています。しかし、その使者は、倭国の王子と、つまり太子か家臣ということでしょうか、礼を争って朝命を述べることなく帰国しています。
 先の隋との関係においても、出雲王朝が属国扱いされることに対し、反発していました。唐王朝の使者は、「朝命」を伝えるという立場で来ていますから、出雲王朝は、唐王朝に命令されることになります。出雲王朝は、当時で400年以上にもなる歴史と伝統を持っています。その出雲王朝が、いくら大陸の王朝とは言え、最近誕生したばかりの国から、命令されたり属国扱いされる謂れはないと思ったとしても当然のことかもしれません。
 隋も唐も貴族社会ですから、自国民に対しても周辺諸国に対しても徹底した差別支配をしている国です。出雲王朝にとっては、隋・唐王朝の周辺諸国を蔑視する対応が許せなかったのは、ごく当たり前のことだとも言えます。当時の状況下にあって、そういう姿勢を貫いたのは、むしろ、賞賛されるべきかもしれません。
    

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