謎を解くカギは、中国の史書にあった

 謎を解くカギは、中国の史書にあった

<概要 漢書 三国志魏書(魏志倭人伝)>

概要

 お隣の中国は、歴史が非常に長く3000年とも4000年とも言われています。あるいは、もっと古くは北京原人と言われる人類発生にまで遡るほどの歴史があります。その歴史が古いだけでなく、過去の歴史が書き記されて残されているというところに中国の偉大さがあるのです。
 では、どういった史書が残されていたのでしょう。
 前漢の頃に司馬遷が記した史記に始まり、清の時代の明史に至るまでの24史が、正史とされています。中国では、次に成立した王朝が、前王朝の歴史を記して、歴代の史書が残されてきました。
 わが国とは、全く違います。
 さて、その24史の中で、倭国や日本国の古代史に関わる記載がある史書はいくつほどあるのでしょう。
 主には、以下の12史と資治通鑑に倭国や日本国について記されています。

 漢書、三國志、後漢書、宋書、南齊書、梁書、晉書、隋書、南史、北史、旧唐書、資治通鑑、新唐書

 では、それぞれについて検討してみましょう。
 

漢書

樂浪海中有倭人、分爲百餘國、以歳時來獻見云。
楽浪の海中に倭人あり。分かれて百餘国をなし、歳時をもって来たり獻見すと云う。

 漢書は、紀元1世紀後半に、後漢の班固が記したとされています。
 これが、この列島について初めて中国の史書に登場した部分です。この列島には百余国があって、時々朝貢していたとあり、この表現は、後の史書の基本にもなっています。
 ただ、この『倭人』という表現は、大陸の王朝から見たこの列島の人々を蔑視した表現で、南方には、小さい人間が住んでいるといった意味を持っています。
 過去、わが国でも、南方の少数民族を『土人』と表現することがありました。それは、色の黒い人間だといった意味で、それと同様の蔑称です。
 大陸に王朝が誕生した時から、その王朝によってこの列島は卑下されていたのです。
 基本的に、王朝とは、人を見下し差別する体制だからでもあります。
 今のわが国に残る『差別』の原点は、ここにあるとも言えます。


三国志魏書(1)

倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑。舊百餘國、漢時有朝見者、今使譯所通三十國。從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里
倭人は帯方の東南、大海の中に在り。山島に依りて國邑をなす。旧百余国。漢の時、朝見する者あり。今、使訳の通ずる所三十国。郡より倭に至るには、海岸に循して水行し、韓国を歴て、乍は南しあるいは東し、その北岸、狗邪韓国に至る。七千余里。

 これが、『三国志』魏書、烏丸鮮卑東夷伝に登場する倭人伝です。所謂、『魏志倭人伝』と言われているもので、3世紀末、西晋の時代に陳寿が記したとされています。漢書よりも詳しく『倭人』について記されています。
 そして、倭に至るには、まずは朝鮮半島の西側を南下し、さらに東に進むと、倭の対岸の狗邪韓国に至るとあります。この後に続く道のりをめぐって『邪馬台国』は何処にあったのかが論じられてきました。
 しかし、その結論が未だに出ていないということはご周知の通りです。
 ところが、結論が出ないというのには、実は巧妙な仕掛けがありました。それは、『邪馬台国』には決して行き着けないような『罠』と言ってもいいかもしれません。そのため、『邪馬台国』が何処にあったのか論争に決着がつかないのです。
 むしろ、論争のままでいることを願っている勢力があるのです。
 では、その記述を検証してみましょう。


始度一海、千餘里至對馬國。
始めて海を渡る、千余里で対馬国に至る。

 朝鮮半島から始めて一海渡ると、対馬国に至るとあります。そして、その距離を千余里としています。
 対馬の対岸には、釜山がありますが、その間の距離はおよそ50kmです。そうしますと、当時の1里は、およそ50mだったということになります。
 先ほど、対馬の北岸から帯方郡までの距離が7千余里とありましたから、およそ350kmということになります。
 帯方郡は、今のソウルから開城周辺にあったとされています。その辺りから釜山までの距離は、ほぼそれに相当しています。
 当時、かなり正確な測量技術を持っていたと見られます。遠方にまで、移動する訳ですから、方角や距離を間違えると、目的地に着けなくなるどころか、迷ってしまったら、自国へも帰れなくなります。
 ですから、太陽・月・星や地形など、あらゆる指標となるものを利用していたのでしょう。


又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國
また、南に一海渡る、千余里。その名は瀚海(かんかい)といい、『一大国』に至る。

 対馬国からまた海を渡ること千余里とありますから、そこからおよそ50kmに『一大国』があるとしています。それは、今でいう『壱岐島』に至りますが、その距離は、同様に記載されているとおり、およそ50kmです。
 

又渡一海、千餘里至末盧國
また、一海渡る、千余里、末盧國

 『一大国』からまた海を渡ること千余里とありますから、そこからおよそ50kmに『末盧國』があるとしています。
 さて、ここで問題となるのは、方角が示されていないということです。それによって、道順や方角に諸説出てくることになってしまいました。したがって、『末盧國』に至る唯一の手がかりは、『壱岐島』から50kmの位置にあるということです。そうなりますと、当然北九州の沿岸ということになります。
 調べてみますと、南の『平戸』や『松浦』は、およそ40km。
 南南東の『唐津』は、およそ35km。
 南東の『博多』は、およそ50km。
 その距離からしますと、『博多』が最も合致していることになります。博多湾には、金印が発見された志賀島もありますから、その地が大陸との交流の要所だったということでは、整合性が一番高いと考えられます。
 つまり、当時の、大陸とこの列島とを結ぶ表玄関だったということになります。

 
東南 陸行五百里、到伊都國
東南へ五百里、陸を行くと、伊都国に到る。

 『末盧國』から、陸を東南に五百里行くとあります。『末盧國』は、博多だとしましたが、そこから東南には平地が開けています。
 そして、五百里、およそ25km行きますと、そこに『伊都国』があったとしています。それまでの国には『至る』とありましたが、ここ『伊都国』では『到る』とあります。今までの国は通過点でしたが、『伊都国』は、目的地、到着地点だとしています。
 では、それがどの辺りになるのでしょう。博多から大野城や大宰府を通り、25km行きますと、『甘木』がそれに相当します。現朝倉市甘木、この地に『伊都国』があったと考えられます。
 地理的には、博多から日田を通り大分へ抜ける街道、小倉から久留米を通り大牟田へ抜ける街道、そして吉野ヶ里や唐津・松浦・平戸方面へ向かう街道、これらの主要な街道が甘木で交差しています。
 つまり、この甘木を中心にして、九州各地へ道が通じていたことになります。甘木の地は、その要所だったということになります。
 ですから、その地に到るのに、現松浦や唐津に上陸して博多を経由して甘木に到ったといった説もありますが、そんな遠回りをする必要は全くありません。当時の要所となる港だった博多に上陸して、甘木の地にあった『伊都国』に直行するのが、最短で一番行き易い道のりとなります。現甘木の地に到るのに、何もわざわざ遠回りをする必要はありません。


郡使往來常所駐
郡の使者が往来して、常に駐在する所である。

 その『伊都国』には、帯方郡からの使者が往来していて、いつも駐在しているとあります。つまり、今で言うところの『大使館』だったのです。
 ですから、この魏志倭人伝に記されている道順は、甘木にあったこの大使館たる『伊都国』へ到るためのものだったと言えます。
 また、『末盧國』を現松浦とする説も見受けられますが、そこから東南に向かおうとしても、そこは山が連なっていて行くこともできません。また、五百里、およそ25km行ってもそれらしい拠点となる場所もありません。他の地も、それと同様です。
 したがって、そこに記述されているところに従って行き着くのは、現朝倉市甘木ということになります。


東南至奴國百里
東南に至る、奴国、百里。

 『伊都国』に常駐する使者は、周辺諸国の紹介をしています。
 まず、近いところから、『奴国』が東南に百里、およそ5kmの位置にあったとしています。博多から甘木に通じる道は、そのまま東南の方向に伸びています。そして、その道を甘木から、およそ5km行きますと、そこは『旧朝倉町』です。
 その地に『奴国』があったと考えられます。


東行至不彌國百里
東至る、不彌國、百里。

 次に『伊都国』から東に百里、およそ5kmの位置に『不彌國』があったとしています。
 甘木から東に5kmとしますと、佐田川沿い『三奈木』のあたりに『不彌國』があったと考えられます。


南至投馬國水行二十日
南至る、投馬、水行二十日。

 次に『伊都国』から南に水行、つまり海を二十日行くと『投馬国』があるとしています。つまり、陸を経ては行けないということです。甘木にあった『伊都国』から、先ほどの港である『末盧國』、つまり博多から船に乗り、長崎と五島列島の間を通り、南に二十日間かかって行けるような島だということになります。
 それは、九州ではありません。そのまま南に下ると、そこは、『奄美大島』があり『沖縄』へと連なります。
 この『投馬国』の地が、いろいろと解釈されていますが、九州や本州だと陸地を経て行けます。しかし、そのように陸を経て行くことができず、『水行』ということのみ記されているということは、海を経て行くしか方法がないということを意味します。
 また、その方角が『南』だとしています。本州の方角だと、『東』になります。
 よって、それらを総合しますと、『投馬国』は『奄美大島』から『沖縄』あたりだと考えられます。その地には「5万余戸」があったとありますから、沖縄がその中心だったのかもしれません。
 「沖縄」とは、明治以降の呼び名で、それまでは、「琉球国」でした。その「琉球国」という国名も14世紀以降です。隋書に「琉球国」が登場しますが、それは、今の宮古島に存在していたとあります。ですから、三国志の時代には、「沖縄」は、「投馬国」と呼ばれていたと考えられます。
 数ある諸説には、魏志倭人伝にある方角や距離は、『間違っている』とか、『勘違い』だとか、中には『どんぶり勘定』だといったことも述べられています。しかし、よくよく検証しますと、当時の測量技術を最大限に駆使して、その方角や距離が記されていると言えます。
 間違っていたり、勘違いしているのは、その解釈をしている方だと言わざるを得ません。


南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。
南至る、邪馬壹國、女王の都する所、水行十日、陸行1ヶ月。

 次に『伊都国』から南の方角に水行、同様に海を十日、または陸を1ヶ月行くと『邪馬壹國』があるとしています。
 『投馬国』は陸を経ては行けませんでしたが、女王の都する『邪馬壹國』には陸を経ても行けるとあります。同様に、甘木にあった『伊都国』から、南に船で行くと十日間、陸を歩いて行くと1ヶ月だとしています。そうなりますと、九州の範囲内だということになります。これらに沿って考えますと、『伊都国』、つまり甘木より北ということはあり得ません。南九州だということになってきます。
 その範囲内でということになりますと、そうそう候補地がいくつもある訳ではありません。
 女王国があった地ですから、それ相応の歴史的拠点としての痕跡が残っていることになります。
 その検証の末、到達したのは、西都原です。西都原台地には、巨大古墳群があり、その地に歴史的拠点があったことを物語っています。宮崎市の北西にある西都市、ここに魏志倭人伝に登場する女王国であるところの『邪馬壹國』があったと考えられます。
 よく言われるところの『邪馬台国の女王卑弥呼』というフレーズですが、ここでは、『邪馬台国』ではなく、『邪馬壹國』と記されています。
 魏志倭人伝のどこにも『邪馬台国』という文字もなければ、『邪馬台国の女王卑弥呼』というフレーズも登場しません。つまり、『邪馬壹國』の『壹』とは、『壱』、すなわち数字の『一』を意味する文字であって、『台』と解釈できる根拠はどこにもありません。
 ですから、『書き間違い』だとか、『写し間違い』、『勘違い』だと見なされています。先ほどの距離や方角のところにもありましたが、間違っていたり、勘違いをしているのは、その解釈をしている方だと、ここでも言わざるを得ません。
 女王国は、西都原にあって、『邪馬壹國』と呼ばれていました。これが、魏志倭人伝の伝えているところです。
 では、その女王国、『邪馬壹國』について検証してみましょう。
 



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