小林須佐男様へのご返信
引き続きのご投稿を賜り、厚く御礼申し上げます。
わが国の古代の姿を、中国の史書とわが国に残されている遺跡や神社等から導き出しますと、大きく言って2つの勢力があったことが浮かび上がってきました。
それは、『一大国』、あるいは『一大率』といった検察機構などからもうかがい知ることができます。
当時、『一』、『大』を象徴する国があり、なおかつそれぞれが別々でなく統一国家を為していたということも分かります。抗争の後に女王を『共立』したという表現にも、それが現われています。
では、その『一』と『大』はどういった国だったのかということになりますが、『一』は、卑弥呼の国『邪馬壹国』でした。その『一』は、卑弥呼の里『日向国』一宮の『都濃神社』の神紋として今に伝えられています。
また、『大』は、大国、出雲です。同様に、東出雲の熊野大社をはじめとして、出雲地域において『大』を神紋とする神社は数多くあります。
次に、ではどうして『一』と『大』なのかということになります。
それは、九州を中心とした先住勢力と、たたら製鉄という強力な製鉄文明をもたらした出雲の勢力との統合にありました。つまり、九州の卑弥呼と出雲のスサノオ尊の統合です。
『天』という文字は、『一』と『大』に分けることができます。そして、『一』は、『大』の上に位置しています。
スサノオ尊は、九州を制圧しましたが、決して殲滅したわけではありません。先住の勢力として、上に仰ぎ見る視点をそこに築いています。
ですから、卑弥呼を『一』として奉りました。そして、自らを『一』の下に位置する『大』と描きました。
この列島を征服した唐王朝のように、歴史から抹殺するようなことはしていません。 しかし、『一』は、『大』があってこそ上に奉られることができます。
つまり、ここに国家的象徴としての『一』と実質的権力者としての『大』という関係が築かれたとみられます。
この関係は、卑弥呼の弟が補佐して国を治めているという魏書の一文にも、その姿を見て取ることができます。
また、この『一』と『大』の二つの勢力が統合し、そこに『天』という象徴がうまれました。
そこには、この二つの勢力の統合により、この世界であるところの『天』を構成するという壮大なロマンあふれる構想があったということもうかがい知ることができます。
このように二つの勢力があったことは、『日本書紀私記』にも『北倭』と『南倭』があったという認識として残されています。そこには、『北倭』が国を為し、『南倭』は女王国だったと明確にその姿が描かれています。
また、隋書では『天』を以って兄と為し『日』を以って弟と為すと、当時の権力機構が紹介されています。『天』が国家的象徴で『日』が実質的権力者という、今の天皇と内閣総理大臣といった関係にも通じているのかもしれません。
その『天』は、『阿毎氏』として史書にも登場しています。天の橋立、天の香具山は、その統一王朝の勢力がそこにいたことを意味しているのでしょう。この『天』は、後々にまで奉られ、出雲大社の地に32丈、およそ100メートルはあったという高層建築の神殿で、出雲の勢力が滅ぼされるまでそこで高々と光り輝く存在でした。
その姿は、万葉集にも残されています。
『高照らす我が日の皇子の万代に国知らさまし嶋の宮はも 』
(第2巻171番。原文:高光 我日皇子乃 萬代尓 國所知麻之 嶋宮<波>母 )
そして、その高所から輝く象徴が唐に滅ぼされてしまったことを意味する歌も残されていました。
『高照らす我が日の皇子のいましせば島の御門は荒れずあらましを』
(第3巻173番。原文:高光 吾日皇子乃 伊座世者 嶋御門者
不荒有益乎)
この国家的象徴は、全国津々浦々の神社でも奉られ、その神社の鳥居はこの『天』を象徴していると考えられます。鳥居を通過することは、神聖なる『天』の領域に入ることを意味していたのでしょう。
これらは、卑弥呼とスサノオ尊に象徴される2つの勢力の強力な同盟関係を意味するものでもありました。
その強力な同盟関係を表しているのが、前方後円墳でもあります。
この二つの勢力が大きく発展する中で、巨大前方後円墳も作られています。全国に数多くある、前方後円墳は、この両者の統合した勢力の墳墓でした。ですから、その前方後円墳の上に神社があってその被葬者が奉られているところもあります。
つまり、卑弥呼のいた女王国は、書き間違いでも認識間違いでもなく『南倭』の地、『邪馬壹国』でなければならなかったのです。同時に、この国を為した『北倭』の地、出雲がこの列島の都であり『邪馬臺国』でなければいけなかったのです。
そして、南倭である女王国は、魏書では『女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種』と記され、後漢書では『自女王國東度海千餘里至拘奴國。雖皆倭種、而不屬女王。』と、卑弥呼の国より東にも国はあるが卑弥呼には属していないとあります。そのどちらも、女王国は九州限定の勢力として描かれており、『日本書紀私記』の『北倭』と『南倭』という認識を裏付けています。
一方、『北倭』であり、この列島の都でもある『邪馬臺国』の王は、魏書においては、『倭王』として描かれています。
『正始元年、太守弓遵遣建中校尉梯雋等奉詔書印綬詣倭國、拜假倭王、并齎詔賜金、帛、錦罽、刀、鏡、采物、倭王因使上表答謝恩詔。其四年、倭王復遣使大夫伊聲耆、掖邪狗等八人、上獻生口、倭錦、絳青縑、緜衣、帛布、丹、木弣(弣に改字)、短弓矢。掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬。』
ここに描かれている『倭王』こそが、『邪馬臺国』にいた大倭王だったのです。この正始元年(240)に、魏が使者を送り、この列島の大倭王として認めた証に渡したのが、出雲の地で発見された『景初3年(238)』の銘文の入った銅鏡でした。
よく、この景初3年(239)の銅鏡が卑弥呼から渡ったものだという説がありますが、それはあり得ません。
景初3年の正月に明帝が亡くなっており、その年、魏は喪に服して公式行事は行われないという時期に行くことはあり得ません。ですから、卑弥呼は、景初2年の6月に魏へ使者を送り、その使者は多くの品物を授かって12月に帰国しています。この半年というのは、銅鏡100枚などを準備する期間だったのかもしれません。また、この100枚というのは、明帝の詔書にもあるように配ることを目的としていました。
ところが、『景初3年』の銘文の入った『3角縁神獣鏡』は、出雲で発掘された1枚だけです。もし卑弥呼に渡されていたものなら、他の地域からも『景初3年』の『3角縁神獣鏡』が発掘されてもいいのですが、出雲でしか発掘されていません。枚方でも『景初3年』の銘文が入った銅鏡が発見されていますが、こちらは、『3角縁』ではなく『平縁』です。全国で、『3角縁神獣鏡』は500枚ほど発掘されていますが、『景初3年』の銘文が刻まれているのは、出雲の1枚だけです。
つまり、この景初3年の銅鏡こそが、邪馬臺の王、倭王に贈られた物であり、出雲が邪馬台国だったことを証明する物証となるものです。だからこそ、出雲がこの列島の都だったことを抹殺しようとする勢力は、執拗にこの景初3年の銅鏡を卑弥呼に結びつけようとするのです。彼らにとっては、絶対に阻止しなければならない生命線でもあります。
明帝の喪が明けて翌年、新しく『正始』と年号も変わり、魏は倭王のもとへ使者を送り、倭王にも様々な品物を授けています。倭王は、その使者に上表文を渡して、さらに正始4年に答礼の使者を送り貢物を贈っています。
この一連のやり取りは、倭王と倭女王という二つの勢力に対するものであります。一つの国に対して、2度も同様の行為を、お互いがやり取りをすることはありません。倭王と倭女王に渡されたものがそれぞれ違っているのも2つの勢力に対するものだったからに他なりません。ですから、倭女王には、皇帝が『汝哀』という言葉を2回使っているのとは対照的に、倭王に対しては、その地を訪問することを『詣』と表現し、証書等を授けることを『奉』という仰ぎ見る表現を使っています。それは、倭王の地が、この列島の都『臺』だったからこそです。
その大倭王が、後漢書では、『自武帝滅朝鮮、使驛通於漢者三十許國、國皆稱王、世世傳統。其大倭王居邪馬臺國。』と描かれています。この大倭王『武』は、この列島のみならず朝鮮半島をも制覇していたとあり、邪馬臺國に居するともあります。同じく後漢書で『自女王國東度海千餘里至拘奴國。雖皆倭種、而不屬女王。』と描かれた倭女王とは対照的です。
さらに、宋書では、倭王『武』が、順帝昇明二年(478)に、「封國偏遠、作藩于外、自昔祖禰、躬擐甲冑、跋渉山川、不遑寧處。東征毛人五十國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國』という上表文を送っています。そこでは、大倭王が、この列島を制覇し、さらに朝鮮半島をも制圧していったことを述べています。
これらの歴史を振り返り、隋書では、魏書以来ずっと都は同じで『邪馬臺』の地だったと記しています。つまり、3世紀頃から7世紀、唐に滅ぼされるまで、この列島の都は、『邪馬臺』の地、つまり出雲にあったということになります。
ところが、唐代に入り、こういった歴史がことごとく改竄されました。
その原点となったのが『梁書』でした。北史や南史は、梁書の認識をそのまま引き継いでいますから、梁書を記した『姚思廉』こそが、この列島の歴史が改竄された『ルーツ』にあたる人物です。
ですから、邪馬壹国を邪馬臺国と描く、そして倭女王を邪馬臺国の女王と描く、景初2年に行った卑弥呼の使者をあたかも景初3年に行ったとして、倭王、つまり出雲王朝へ正始元年、魏から使者がやって来たことを隠すといったように、出雲王朝が歴史から抹殺されているのは、この『梁書』が原点となっています。そして、後々の唐王朝や藤原氏、そして今に至るまでの『出雲隠し』の手口は、同様にこの梁書が基本となっています。
ところが、この梁書が作成された636年には、隋書も記されています。この歴史認識が大きく異なる史書が同時期に作成されているのです。
それは、当時の唐の事情があると思われます。
618年に唐が建国され、626年には第2代皇帝李世民の時代となっていました。
彼の治世は、『貞観の治』と言われて後世に至るまで大きく評価されています。
隋書は、魏徴によって書かれているのですが、彼は、歯にものを着せぬ人で、皇帝にも率直に進言する気骨のある家臣だったとされています。また、200回あまりも皇帝が癇癪をおこした時に、皇帝を諌めたとあり、皇帝も彼が亡くなった時には、大いに悲しんだとあります。このような人物が側近として居たことで『貞観の治』と評される治世が行われたのでしょう。また、そのような人物が記した史書だからこそ、同時期の改竄されたような史書とは異なり、より史実に近いものが作られたと考えられます。
その魏徴も、李世民も亡くなり、第3代皇帝『李治』の時代になると事態は、一変してしまいます。
李治は、病弱で皇帝としての職務がとても果たせるような人物ではありませんでした。その李治は、周囲が反対したり不安視する指摘があるにもかかわらず、武則天を皇后にしてしまいました。
武則天は、諱名(本名)を武照と言い、14歳で李世民の後宮として入ります。
しかし、李世民は、武則天を遠ざけていました。
その息子李治は、武照が入ってきた時、10歳で、そのときから彼は4歳年上の武照が気に入ってしまいます。
李治が、即位した時は、王皇后がいたのですが、武則天は、李治に取り入り女児を生みます。
武則天は、王皇后がその娘を見て部屋を出た後、すぐにわが娘を絞め殺します。それを、王皇后の仕業だとして、王皇后を失脚させ、655年、武則天は皇后の座に就きます。さらに、武則天は、王皇后等を虐殺してしまうのです。
武則天は、病弱の李治に代わって実質的支配者として、権勢を振るいます。垂簾政治とも呼ばれていますが、反対派を徹底的に抹殺し、密告を推奨したり、独裁的な恐怖政治が横行します。
この武則天の矛先は、他国にも向けられます。新羅の要請もあったようですが、660年、百済や高句麗など東アジアの制圧に向かいます。そして、663年、出雲王朝は百済救済に5万人とも言われる軍勢を送りますが、唐は、白村江の戦いで殲滅した後、この列島をも制圧してしまいました。
しかし、唐は、この列島の実質的支配者であった『日』、出雲王朝を出雲の地からも歴史からも駆逐してしまうのですが、その国家的象徴の『天』は、その後の支配に都合が良いということで残されました。
第2次大戦後の、この列島と同様な状況だったのかもしれません。
そのため、この列島においては滅ぼされたといった歴史は残されませんでした。しかし、出雲の勢力は、彼らの手で殲滅されたので、『国譲り』、いわゆる『禅譲』の形態として記紀に残されました。
毎年、旧暦の10月10日に始まり、その後1週間、出雲で執り行われている『神在祭』は、このときに殺戮された出雲の大王、大国主命の命日を今に伝え、それを弔っていると考えられます。その弔いのために全国の神が集まってくるため、各地の神社に神主が不在になり、全国では神無月、出雲では神有月と言われるようになりました。『国譲り』などとしていますが、侵略者が自らの侵略行為を美化した表現にすぎません。
また、武則天は、660年、皇帝を『天皇』、皇后を『天后』という呼称に変えています。
その『天皇』という呼称も含めて、武則天は、この列島に天皇制を持ち込みました。すなわち、今にも続く『天皇制』のルーツ、その皇祖神は武則天でした。皇室の祖先が、天照大神と神武天皇だと未だに言われているのは、神武と天照、つまり、武則天の本名(諱名)、武照を意味しているからだと考えられます。初代天皇が『神武』だとされているのには、こういった根拠があったようです。
記紀にも、そういったことが残されています。仲哀天皇の段で、武則天を意味する天照大神は、天皇以上に絶対的な権力を誇っています。また、朝鮮半島を侵略する神功皇后も武則天を意味しています。武則天は、実際、朝鮮半島を制圧していますし、皇帝位についていたとき、697年に『神功』という年号を使用しています。
この列島や出雲王朝は、武則天の指令で滅ぼされていました。
李淵寿が記した北史・南史は、659年に作成されています。まさしく、唐が周辺諸国を制圧する直前です。
武則天を中心とする唐王朝が、魏徴ではなく、姚思廉など改竄勢力へと軸足を移し、唐王朝そのものが改竄勢力となったことを意味しています。旧唐書で、長安3年に、この列島から行った使者が、武則天に歓迎されているのも、その実態を表しているようです。
武則天によってこの列島が制圧されたことを、日本書紀に密かに盛り込んで後世に伝えようとしたと思われる部分があります。
それは、壬申の乱です。壬申の乱は、天智天皇の死後、その子大友皇子を、天智の弟、大海人皇子が滅ぼし天武天皇となった内乱だとされています。
わが国に伝わる天皇の中で、その名前に『天』が付くのは『天智』と『天武』のみです。
唐の皇帝や皇后でその名に『天』が付くのは、李治と武則天のみです。李治が『天智』を、武則天、あるいは則天武后が、『天武』を意味しているようです。『海人』も『あま』、『天』です。
李治が亡くなると、その子李顕が即位するのですが、武則天に対抗する姿勢を見せたので、武則天は、わが子であるにもかかわらず54日で李顕を皇帝から引きずり降ろし、その弟李旦を武則天の傀儡として即位させます。李旦は、武則天の言いなりでしたが、それでも武則天は、690年、李旦を皇太子に格下げして、自らがとうとう皇帝位につきます。そして、国号を周と改めています。
しかし、705年、武則天は、譲位して、国号は、再び唐に戻り、呼称も皇帝と皇后に戻っています。
したがって、武則天が名づけた天皇を名乗ったのは、李治一人で、その天皇制をこの列島に持ち込んだのも武則天ということになります。
天智が兄で天武が弟とされているのも、天武も、つまり『武氏』も、所詮李氏唐王朝にあっては、李氏の下に位置していることを意味しているのかもしれません。
このように、壬申の乱やそこにおける天武の行動と、李治の死後の推移と武則天の行動とは極めて類似しています。この列島を制圧したのは、李氏や、武則天の勢力である『武氏』、つまり、『武士』だということを『壬申の乱』は暗示させているようです。徳川時代にまで続いた『武士』のルーツは、この武則天にありました。
このことは、万葉集の歌にも残されていました。
『天雲之向伏國 武士登所云人者 皇祖神之御門尓 外重尓立候 内重尓仕奉 玉葛弥遠長 祖名文継徃物与 』(第3巻443番)
天の雲の遠い向こうに伏す国とは、唐を意味しているようです。その国に、『武士』と言われる人が居て、皇祖神、武則天でしょうか、その門の外に立って警護をし、内にあっては仕え奉るものだと言っています。そして、その名は継ぎ行くものだとしています。
このような紹介があるということは、それまでこの列島には『武士』という勢力は無かったということになります。
また、この歌の通り、徳川時代に至るまで『武士』は残されました。そして、その勢力である源氏は、藤原氏の警護など天皇制の維持に大きく関わり続けました。徳川家康も源氏で、公文書では源家康と書いていたとあります。今もその体制は、引き継がれています。
先の、万葉集の歌(443番)が詠まれたのは、天平元年(729)となっています。
その年、藤原光明子が、聖武天皇の皇后となりました。『天璽国押開豊桜彦尊』、『天』の象徴であった『聖武天皇』ですが、その『天』が、藤原氏に『平定』されたという意味での『天平』という年号だと思われます。
こうして、わが国、また出雲王朝は、唐王朝、武に征服されたということだと考えられます。
長くなって申し訳ありませんでした。
このように、歴史の推移から考えますと、通説と大きく異なる姿がそこからは浮かび上がってきました。
さらに、これからも引き続き検証していこうと考えているところです。
今後とも、何卒よろしくお願いいたします。
みんなで古代史を考える会
西山恒之
(08年2月23日22:20) |
邪馬台国発見
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