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小林須佐男様へのご返信

(概略)

 このたびのご投稿まことにありがとうございます。

 東出雲の意宇川流域に位置する出雲国庁跡は、8世紀以降の律令制度に基づく『出雲国府跡』だとされています。
 ところが、その国庁跡の南には、出雲地域最大規模の『大草山古墳群』と呼ばれる、文字通り100基をはるかに超える古墳の山があります。
 つまり、その出雲国庁跡こそが、出雲王朝の大宮のあった場所で、その南の丘陵に出雲王朝の大宮人たちが葬られたと考えられます。
 その古墳群は、1300年前から1600年前に遡るとされています。
 若干のずれがあったとしても、ほぼ出雲王朝の時期と一致します。
 その出雲国庁跡が、8世紀以降の出雲国府跡だとしたらその地には誰も居ないのに古墳群だけが残されたということになってしまいます。
 記紀や出雲風土記による認識では、説明不能です。

 さて、魏書にあります、『邪馬壹国』に至る表記に関わるところですが、まず大陸からこの列島にやってくる経路が記されています。
 そして、『伊都国』に着きます。
 そこには、郡の使者が往来し常駐しているとあります。
 さしずめ、大使館といったところでしょうか。
 その伊都国から、東南に『奴国』、東に『不弥国』、南に『投馬国』、そして、南に女王が都する『邪馬壹国』があるとしています。
 つまり、伊都国を拠点として並列に紹介しており、『それぞれを経由してということではない』と考えられます。
 ところが、唐代に記されました梁書や北史においては、それが直列に記されています。
 それぞれの国を経由して『邪馬臺国』に至るような記述となっています。
 『邪馬壹国』が『邪馬臺国』とすり変えられています。
 これは、唐代に歴史改竄が行われていたことの証明でもあります。
 その動機は出雲王朝(邪馬台国)の抹殺です。
 この唐代の歴史認識が今にまで引き継がれているため、意図的と思えるほどに『邪馬壹国』の理解に混同が見られます。
 
 また、大陸からこの列島へは、今のように簡単に行き来できませんし、明解な地図もありません。
 この列島の諸国が、どのあたりに位置し、その大きさ、あるいはどういう位置関係にあるかは、よく分からないといったことだったのかもしれません。
 『自女王國以北,其戸數道里可得略載』
 それが、この原文表記の意味するところだと考えられます。
 ここの部分までに登場している国々はその道のりや戸数が記されています。
 『邪馬壹国』までは実際に使者が行ってもいますから、その位置や『邪馬壹国』の風土慣習は確認できます。
 『其餘旁國遠絶,不可得詳。』
 しかし、その後の部分に記されている斯馬国以下の国々は、そういう国があるらしいが詳しくは分からないということなのでしょう。
 すなわち、大陸から伊都国まで、そして奴国、不弥国は、『邪馬壹国』より以北にあったから詳しく述べられています。
 では、その『邪馬壹国』がどこにあったのかということになりますが、当時、それなりの大きな勢力を誇っていますから今にもかなりの痕跡が残っていると考えられます。
 伊都国の南方で、『水行10日、あるいは陸行1ヶ月』を基本に考えますと、九州における伊都国のほぼ対極に位置していることになります。
 その他、神社等に残されている事象を考え合わせますと、その地は宮崎県の西都原台地と推定できます。
 そこには、西都原古墳群と呼ばれる巨大古墳群があります。
 その西都原台地の中の高台に位置し、一際大きく今は『男狭穂塚古墳』と呼ばれていて、わが国最大の円墳があるのですが、それが、間違いなく卑弥呼の墓だと考えられます。
 そのそばに寄り添うようにして作られた、九州最大の前方後円墳は、その娘市杵島姫のものでしょう。
 その前方後円墳は、『女狭穂塚古墳』と呼ばれています。
 この西都原古墳群につきましては、その紀行を公開しておりますのでご参照ください。

http://kodai21-s.sakura.ne.jp/hm-m.html

今後とも、当サイトをよろしくお願い申し上げます。
 
みんなで古代史を考える会
西山恒之
 
(08年2月19日13:19)
 
 



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