『=邪馬台国検証=』や『謎を解くカギは史書にあった』でも検討しましたが、もう一度おさらいをしてみましょう。
三国志魏書で、魏の使者が卑弥呼のいる女王国にやって来ていましたが、その時に、周辺国との抗争の最中に卑弥呼は亡くなります。そして、卑弥呼の墓が造られ、その径は、百余歩とありました。
次に、神社について検討する中で、都農神社と都萬神社は、殿と妻を意味すると共に、その祭神から出雲と九州の融合が導き出されました。すなわち、出雲の殿と九州の妻と言えば、各地で奉られているスサノオ尊と卑弥呼です。
そして、都萬神社の近くには、西都原古墳群がありました。その古墳群の中には、わが国最大の円墳があり、さらに小さい方墳がついているので帆立貝式古墳とも呼ばれています。その円墳の部分の直径が約130メートルです。今の日本では、とにかく足を踏み出すのが1歩ですが、当時の中国における1歩は、右か左か計測する足を決め、その足で何歩かを計るともありました。つまり、今の日本における2歩が当時の1歩となります。それで考えますと、半歩が60センチ前後だとすれば、1歩が約1.2メートルとなり、ほぼ魏書と一致するのです。
こうして、わが国の歴史上にあって、いつまでも古代へのロマンをかきたててやまない卑弥呼の墓にたどり着いたのです。
さらに、その側には、寄り添うようにして九州最大の前方後円墳があります。これは、八重垣神社の壁画にも寄り添うように描かれていた卑弥呼と市杵嶋姫を意味していると考えられるのです。出雲のスサノオ尊と九州の卑弥呼の娘である市杵嶋姫は、出雲と九州の融合の象徴的存在です。そこで、その墓も出雲と九州の合体を意味する前方後円墳で奉られたということになります。
八重垣神社や日御碕神社、あるいは宇佐神宮などもスサノオ尊と卑弥呼、そして市杵嶋姫が一緒に奉られています。ですから、娘の市杵嶋姫が亡くなった時には、その墓が、母である卑弥呼の側に造られたと考えられるのです。
その市杵嶋姫は、中国の史書に出てくるところの壹與だとも考えられます。壹與の一、市杵嶋姫の一、邪馬壹国の一、そこには一が共通しています。それを象徴するかのように、都農神社の神紋は一なのです。
出雲の熊野大社の神紋は亀甲に大です。出雲王朝の国名は大国です。そして、卑弥呼のいる女王国は、邪馬壹国つまり一国。魏書には、一大国とか一大率とかも記されていました。
それは、出雲と九州の融合を意味しています。
さて、その西都原古墳群にある卑弥呼と市杵嶋姫の墓と思われる2基の古墳が、現在はどうなっているのでしょう。
ようやくたどり着いた卑弥呼と市杵嶋姫の母娘の墓ですが、調べてみますとその二つの古墳は、円墳が男狭穂塚(おさほづか)で、前方後円墳が女狭穂塚(めさほづか)という名前が付けられていました。
どういう理由でそういったネーミングがされたのかは分かりませんが、どうも男性と女性という設定のようです。やはり対のように思われてはいるのですが、母娘ではなく、男性と女性の対にされていました。一説では、男狭穂塚がニニギの尊で、女狭穂塚がコノハナサクヤヒメだということです。
まったくの記紀史観による認定のようです。また、他にも、被葬者は日向国造の始祖であったと推測される豊国別王(トヨクニワケノミコト)ではないかとか、男狭穂塚が牛諸君牛諸井(モロカタノキミウシモロ)、女狭穂塚が牛諸君牛諸井の娘で仁徳天皇の妃でもあった髪長姫(かみながひめ)だという説もあります。
そして、どちらの古墳も5世紀頃の造営と見られていて、卑弥呼の時代よりも新しい古墳だとされています。最近は、それより1世紀は遡る可能性もあるという説も出ているようで、少しは卑弥呼の時代に近づいているようです。
総じて、いろいろな資料を見ましても、西都原古墳群に卑弥呼の墓があるといった説はほとんど見当たりませんでした。この間調べた中で、唯一そういった指摘があったのは『日本建国の三大祖神(大野七三氏著)』という著書で、そこでは、男狭穂塚を天照大神(卑弥呼)、女狭穂塚を卑弥呼の次に女王となった台与の御神陵だと推定されていました。
こうなりますと、やはり自分の目で見てどう感じるかということが最も重要なところとなります。
では、いよいよ宮崎に向けて出発しましょう。
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