今昔なぜなぜ?      Q & A

<藤原氏>

「藤原氏とは何者なんですか?」

 「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも 無しと思えば」(小右記 1018)
 この歌は、藤原道長が、事実上の最高権力者であった左大臣の時に詠んだ歌です。今の世の中は、自分を中心に動いていて、いつも満月のように何も欠けることがないほど満ち足りているといった思いを詠んでいます。つまり、藤原氏にとっては、満ち足りた世界だったのでしょう。
 では、一体藤原氏とは何者なのでしょう。そのルーツはどこにあるのでしょう。今の我が国の通説にあっては、中臣鎌足が天智天皇から授かったともされています。では、その中臣鎌足とは?
  そして、天皇とは何者でいつこの列島に存在することになったのでしょう。
 このように、我が国の成り立ちの歴史は、極めて不可解な神話も含めて混沌とした世界となっています。
 その不可解な我が国の歴史を紐解こうとすると、唯一、大陸に残されている史書などの歴史と突き合わせるしかその方法はありません。
 そして、それを突き詰めていきますと、西暦663年11月18日(旧暦10月10日)、唐王朝によって、この列島の都があった「出雲(当時はやまとと呼ばれていました)」の地が、占領・征服されていたところに行き着きます。もちろん、この列島全域もその支配下に置かれました。その詳細は、資治通鑑に残されています。唐王朝第3代皇帝李治の皇后武則天の時にこの列島が征服されているので、今もこの列島には武則天の影響が色濃く残されています。天皇もそのひとつです。武則天は、道教の理念から皇帝を天皇という呼称に変えました。しかし、武則天の失脚後はふたたび皇帝に戻されています。ですから、中国皇帝制度の中で、天皇を名乗ったのは、武則天の夫李治のみです。つまり、この列島に天皇制が誕生したのは、唐王朝の支配がこの列島で確立した大宝律令以後です。
 そして、この列島を征服した唐王朝の勢力は、支配者としてこの列島の人々を奴隷の如くに隷属下に置きます。そして、自らの勢力をこの列島の人々と分けるために氏姓制度を導入しました。そして、唐(藤)を源(原)としているという意味で、彼らは藤原氏を名乗りました。ちなみに、中臣とは、「中」国の家「臣」です。さらに、藤原氏は各地に荘園領主として派生していき、近くの近藤、遠くの遠藤、伊賀の伊藤、加賀の加藤、王朝を補佐する佐藤といった名前が広がっていきました。また、その多くは、あ〜さ行に集中しています。
 中臣鎌足が、藤原姓を授かったのが天智天皇だとされているのも、「天智」は、唯一「天」皇を名乗った第3第皇帝李「治」、李治を意味していることに起因しています。また、天武天皇は、唯一天后を名乗った李治の皇后「武」則「天」を同様に意味しています。
 その唐王朝も907年朱全忠に滅ぼされこの列島に流れ着きます。その時に持ち込んだ宝物が今も東大寺正倉院で保管されています。そして、彼らは、再び大陸を支配下にしようと、秀吉の時代、あるいは明治維新以降大陸へ侵略していきました。「唐王朝再興」それこそが、彼らの存在意義です。そのことは、古事記で因幡の白兎のお話として残されています。『この列島の人々を騙して再び大陸の支配者として舞い戻れ。しかし、決してそのことは口にするな』というのがそこに秘められたメッセージです。ですから、彼らは、天皇や藤原氏が何者なのかも、自らの本性も思惑も一切口にしません。また、唐王朝がこの列島を占領・征服したことも、再び大陸を支配下にしようなどと思っていることも秘匿したまま、彼らにとって都合の悪い歴史や理念や勢力を抹殺しようとします。今の執拗な憲法改定の動きも、君が代の強制もその動機に基づくものです。そして、彼らにとって都合の良い歴史だけを残そうとします。

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