『古代史と私』

『古代史と私』               西山恒之

 私は、大学が経済学部だったこともあり、今まで特に歴史と深くかかわるようなことは全くありませんでした。ただ、どのようにして日本国や天皇制が誕生したのだろうかとか、どうして日本とか天皇という呼称になったのだろうといった疑問は持っていました。
 そして、04年の春の日のことでした。ふと、書店で万葉集の歌の載っている『万葉集 名画の風景』(学習研究社、03年4月3日発行)という雑誌を手にしました。万葉の地・奈良の綺麗な写真が歌の背景にあり、田辺聖子さんのコメントも載って、とても鮮やかな印象を受けました。
 ところが、その中の歌と共に解説を読んでいますと、詳細が不明だといったことがあちこちに出てきました。柿本人麻呂がどういう人物だったのか分からない、あるいはその人麻呂が琵琶湖の畔に佇んで近江大津宮や古を偲んで歌を詠んでいるが、どういう関わりがあったのか分らないなど、謎だといったことがたくさん出てきておりました。
 確かに、遠い過去のことですから不明な点も多いのだろうと思ったのですが、でもどうしてそんなにも不明な点が多いのだろうと、その雑誌を購入し、帰宅してからインターネットで調べる事にしました。
 これが、私の古代史に関わる第1歩でした。
 大学の頃に、万葉集には少々興味が有り、何冊か本も買っていました。しかし、ちょっと読んではそのまま蔵書になってしまう程度でした。そういうこともあって、書店で万葉集の本に手が伸びたのでしょう。
 さて、その万葉集の歌の中での疑問は数限りなくあったのですが、その中で最も疑問に思ったのは、第1巻第2首の歌でした。
 
『大和には 郡山(むらやま)あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は 鴎(かまめ)立ち立つ うまし国ぞ あきづしま 大和の国は』
 この歌は、奈良にある大和三山の香具山で詠まれた歌だとされています。しかし、奈良盆地には海も無ければ、鴎などいません。通説では、近くにある埴安の池を海に見立てて詠んだとされています。古代の歌人は想像力が豊かだったという事のようです。

 本当にそうなのでしょうか。私には、潮の香りすらするほどに写実的な歌に思えてなりませんでした。
 これは、もう現地に行くしかないと、奈良へも行きました。当時、ニュースにもなっていましたが、高松塚古墳にも行きました。その近くに歴史資料館があって入ったのですが、正面にその第2首の歌が大きく書かれていました。横には、とても見晴らしの良いところから撮影した畝傍山の写真も展示してありました。
 とても素晴らしい写真でしたので、てっきりこれは香具山で撮影されたものかと思いましたが、よく見ると甘樫丘で撮影したとありました。第2首の横に展示するんだから、国見をしたという香具山からの映像を展示すればいいのにと思ったものです。
 甘樫丘と言えば、蘇我氏が権勢を誇り、その甘樫丘に邸宅を構え天皇家を見下ろしていたと言われている丘です。
 その甘樫丘へも行ってみました。甘樫丘は、先ほどの映像と同様の畝傍山が綺麗に見える展望台があったり、他の香具山、耳成山や奈良盆地が綺麗に見渡せる絶好の場所でした。そこは、見晴らしの良い場所として整備もされ、多くの観光客も来ていました。
 海外からも見えていましたが、その中の団体のガイドは、蘇我氏について先ほどと同じような事を説明しておりました。しかし、それも大いに疑問に思いました。甘樫丘の上に、仮にも天皇家より権勢を誇った一族の邸宅を構えるとしたら、それ相当の広さが必要でしょうし、山の上ですからしっかりとした基礎も必要となります。
 しかし、その甘樫丘の上は、狭い尾根であって、そんな邸宅を構えるような広さはありません。ましてや、そんな基礎の跡などありませんでした。私の疑問はまたまた大きく広がっていきました。
 さて、では、香具山はどうなんだろうということで近くまで行きましたが、何処から上がってよいのか道も分らなければ、表示も見当たりません。特に、景勝地になるような山ではないようです。
 そして、大和三山の中心にある藤原京の大極殿跡地とされている場所へ行きました。そこから、持統天皇が『春過ぎて夏来たるらし白妙の衣干したり天の香具山』という歌を詠んだとされています。でも、その跡地から香具山を見ても、何の感動も呼ぶような佇まいではありませんでした。
 結局、奈良にまで行きましたが、やはり、あの第2首は奈良大和で詠まれた歌ではないと、ただただ確信が深まるにすぎませんでした。そして、蘇我氏の邸宅は、甘樫丘になど無かったということも同時に確信いたしました。
 こうなると、この国の古代史とはいったいなんなんだろうといった疑問が深まるばかりです。
 さらに、万葉集を調べたのですが、『大和』と解釈されている歌はたくさんあるのですが、万葉集の原文においては『大和』と明記された歌は1首たりともありませんでした。
 『倭、夜麻登、日本、山跡』などが、すべて『大和』と解釈されているのに、原文の歌には『大和』という文字は全く出てこないのです。
 『何故だろう。』
 ここでは、ほとんどどうしようもないとお手上げの状態でした。
 とにかく、第2首がどこで歌われたのか引き続き調べることにして、九州にも行きました。有力な場所はありましたが、決定的な場所は中々見つかりませんでした。
 何と言っても、大王がいて国見をするのですから、それなりに歴史的拠点でなければいけません。
 結局、わが国の歴史的資料のみでは、解決することは出来ないと中国の史書を調べる事にしました。
 それを、調べていく中で、当時の都「やまと」が出雲にあったところに行き着いたのです。そして、それこそが『邪馬台国』だったのです。それは、本当に衝撃的な瞬間でした。。
 そこから、歴史の謎が少しずつほぐれていきました。
 さらに、景初三年の銅鏡が出雲の地で発掘されていたことも分かり、物的証拠まであるとなればもう邪馬台国は出雲に間違いないと確信いたしました。

 では、出雲に大王がいたということになれば、あの第2首の歌も出雲で歌われたのではないかと出雲にも足を運びました。
 すると、まさしくそれに相当する山があったのです。出雲大社から稲佐浜へ行く道を歩いていると、傍の小高い山の上に鳥居があるのが見えました。最初は、山の上に鳥居ってなんだろうなあと不思議に思った程度だったのですが、ところが、よくよく調べましたら、なんとその山が『天の香具山』だったのです。
 今は、奉納山と呼ばれていますが、その山に登ると、完璧にあの第2首の条件を満たしていたのです。二千年近い過去にあって、この場所で大王が国見をしながら歌を詠んだのだと思ったら、その時はとても感動いたしました。
 とうとう万葉集第2首が詠われた場所を発見できたのです。その山頂から見える稲佐浜には多くの鴎(今はうみねこと呼ばれていますが)が、近くの日御碕にある御厳島から数え切れないほど飛来します。西には日本海が広がり、南には中国山脈が見渡せます。出雲は、たたら製鉄と刀鍛冶の地です。木や炭を焼く煙があちこちで立ち昇っていたことでしょう。

 やはり、第2首は、海の見える場所で歌われていたのです。そして、当時の大王が今で言うところの奉納山に登って、意気揚々とこの歌を詠んだのです。
 あきづ島、つまりトンボのような島とは、島根半島のことでした。今は繋がっていますが、古代は島でした。そして、トンボのように細長い島です。

 第2首が出雲大社のあった地で歌われていたということになると、それは、出雲が古代の都「やまと」、つまり、「邪馬臺国」だということにもつながります。
 天の香具山は、今で言うところの奉納山だったのです。
 では、持統天皇の詠ったあの歌は、どういうことになるのでしょう。それは、『持統天皇』が国家的象徴の立場になり、当時は100メートル近くあったとも言われている、出雲大社の地に建っていた高層の神殿に初めて昇った時、あの歌を詠んだというところに到達しました。折しも、気候の良い初夏の頃、その神殿に昇り、下からでは見えるはずもない、天の香具山の上が見えて感動したのでしょう。
 といったように、万葉集の謎も、出雲に都があったという視点で見れば、よく分らなかった歌が解決できていくのです。
 ところが、この出雲にあった都「やまと」、すなわち『邪馬台国』は、白村江の戦いの後、唐に滅ぼされてしまいます。
 当時、世界最大の帝国を築いていた唐が、どうしてこんな大海の孤島に何のためにやってきたのでしょう。
 その目的は、水銀でした。今で言えば、油田の制圧のために中東へ侵略していったアメリカと一緒です。
 ですから、伊勢や丹後の水銀の地を征服したのです。
 この列島を征服するのなら、当時の中心地であった九州や都であるところの出雲を拠点にするはずだと思えるのですが、彼らは近畿地方を制圧しています。つまり、伊勢や丹後、あるいは高野山からも産出していたとも言われている水銀が目的だったのです。
 当時、不老不死の薬、朱色の原料、また金加工の媒体として非常に重宝されていました。あの、徐福も不老不死の薬を求めてやってきたとありますが、おそらく水銀を求めてのことだと考えられます。鉱脈を探すとなると短期間にはできません。ですから若い男女でやって来たということは、相当長期間に亘る設定だったのでしょう。
 その水銀鉱脈を、およそ2世紀後半から7世紀半ばまでは、出雲の勢力が押さえていたのです。
 唐王朝は、白村江の戦いの後、この列島を制圧し、その後、藤原氏として現在に至るまでこの列島を支配し続けているのです。藤は唐、原は源、すなわち元は唐だよという氏なのです。彼らは、鮮卑族で、トルコ地方からやってきて満州エリアに拠点を構えた東胡をルーツとしています。
 その唐王朝は、黄巣の乱の後、907年に滅亡しますが、その時、殺戮の憂き目に合い、命からがらこの列島に逃走してきました。その時に持ち込んだのが、正倉院に数多く残されている宝物です。中国では、唐の滅亡とともに王朝貴族も消滅しましたが、この列島では、平安時代のみならず明治憲法下まで特権支配階級として生き続けてきたのです。
 その彼らが、この列島を制圧して、その後支配の象徴として導入したのが、天皇制でした。唐王朝第3代皇帝李治の皇后武則天は、道教の思想に基づき660年皇帝を『天皇』という名称に変えました。しかし、武則天の失脚後、再び皇帝に戻されています。
 その武則天の時代にこの列島が征服され、その後もその占領下にあるので、『天皇』というシンボルは、今に至るまでこの列島には残されています。ですから、わが国の天皇制のシステムなどの名称は唐の時代の皇帝制度に基づいています。
したがって、この列島で天皇という制度が誕生したのは、白村江の戦いでわが国の軍勢が大敗して以降、つまり、唐による侵略の後ということになります。
 それ以前は、出雲王朝の国家的象徴である『天』がこの列島の大王として君臨していたのです。そして、663年秋、唐に占領・征服された後、それまでの出雲王朝の歴史は抹殺され、彼らにとって都合の良い歴史がこの列島に押し付けられたのです。
 また、出雲の地が攻撃された時、密かに隠されたのが荒神谷遺跡で発掘された358本の銅剣でしょう。さらに、万葉集に残されている『東 野炎 立所見而 反見為者 月西渡』という人麻呂の歌は、出雲が滅ぼされ、焼け落ちていく無残な光景を詠ったものだと考えられます。
 そして、多くの出雲の勢力が逃走した先は、津軽でした。津軽を、以前は東日流と書いていたそうです。つまり、出雲にあった『日』が、東に流れていったということなのでしょう。ですから、津軽地方と出雲地方の言葉のイントネーションは良く似ています。
 また、その後も出雲の勢力は常に制圧の対象でした。征夷大将軍は、出雲の勢力の制圧のために平安朝の時代に作られ、江戸時代まで続きました。いかに出雲の勢力が抑圧の下に置かれていたかがこれでもわかります。
 また、その制圧の対象は出雲の勢力だけではありません。唐の貴族であった自分達を、こんな島に追いやったにっくき大陸の中国に対する怨念は、記紀の中で、大陸を侵略せよという天照の言葉として残されていて、その指令は今も消えていません。ですから、過去、この列島からは何度となく大陸に向けて侵略しています。
 これは、藤原氏の怨念が消えるまで侵略の動きは無くならないでしょう。つまり、藤原氏の象徴である天皇制が無くならない限り、この列島から侵略の動きは続けられるということです。
 この間は、まさしく歴史探索の旅でした。そして、次々と認識が新たになっていきました。この古代史探索の中で、邪馬台国が出雲にあったことにも行き着きました。しかし、そういったことは、ほとんど誰も知らないというのが現状です。少しでも多くの人に知っていただき、どんどんと認知度を高め、この国の歴史認識が変わっていくようなことになればと考えているところです。
 皆様のご協力もぜひよろしくお願いいたします。



        

    邪馬台国発見

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