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小林須佐男様からのご投稿

(2008年2月19日PM8:31)

・・・・・『邪馬臺國』私考・・・・・

『三國志』巻三十「魏書」三十烏丸・鮮卑・東夷傳の鮮卑条と夫餘条の条間に著者の 総評として 原文『長老説有異面之人、近日之所出、遂周觀諸國、采其法俗、小大區別、各有名號、可得詳紀。』が記載されており、邪馬臺國時代を考察するには重要な表記と判断できる。

訳『ある長老の「説」話によれば(東大海の日本に)異面(黥面)人こと倭(委)奴人(アイヌ族)がおり、 「近日」太陽(日の出)に近い所(日の本・常陸国)に住んでいる。 『諸国」(倭國)を「周觀」見廻り(舟で遍歴)国々の特有な風俗と制度・規律を「采」 記録した。
国々には「小大」大きさの「區別」があって「各」其々「名號」国名が「有」あったので、詳しく「紀」記録が 「可得」出来た。』との意。

この記載から判断すると、『三國志』の編纂した陳寿は、様々な列伝を基に「魏書」三十烏丸・鮮卑・東夷傳をまとめ完成させた事が解る。
ここで重要な点は、邪馬臺國時代の倭國には二つの勢力があった事である。一つは、女王俾彌呼の邪馬臺國を盟主とした30カ国の勢力であり、もう一つの勢力は邪馬臺國連合に対峙していたアイヌ族の狗奴國なのである。

『三國志』巻三十「魏書」三十烏丸・鮮卑・東夷傳倭人条の文脈構成を分析すると、倭國に於ける二つの勢力の地理・歴史・交流史・政治・近況情勢・評論などが整然と構成されているのが明らかなのである。
また「隋書」には、『阿蘇山』までは倭國の勢力範囲であることが窺える。
大業4年(西暦608年)には『秦王国』(出雲王朝)に渡来した隋国・答礼使の裴世清たちを迎えに来た遣使・大禮(官位名)哥多毘たちは、倭國の首都・邪靡堆(野洲近江王朝)から10 日間もかけていた。

従って、『秦王国』(出雲王朝)と邪靡堆(野洲近江王朝)との距離は徒歩で10日間かかる事が判断できる。
大業4年(西暦608年)には、竹斯國こと筑紫国(北九州)からの東諸国は倭國の首都・邪靡堆(野洲近江王朝)が『皆附庸於倭』統治していた事も記載されている。

原文『都於邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也』と記載があるように、倭國の首都・邪靡堆(野洲近江王朝)の呼称は、『三國志』「魏書」東夷傳倭人条に登場し記載されている『邪馬臺國』(邪馬壹國)の事であると明記している。

従って、「隋書」においては「魏書」の『邪馬壹國』とは『邪馬臺國』の事であると明 確に表記している。

2008年2月19日

小林 須佐男



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